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- 役職定年
- 価格:814円(税込)
金融系人事のエキスパートとしてキャリアを重ねてきた加納英司は、42歳にして大手生命保険会社の永和生命に転職する。「構造改革推進室長」という肩書とともに迎え入れられた加納に与えられた任務は、働かないシニア社員、通称「妖精さん」たちを絶滅させることだった。あらゆる手で追い出しを謀る加納に対抗し、シニア社員は「妖精同盟」なる組織を結成する。社会問題を多様な視点からコミカルに描いた痛快お仕事小説!
元新聞記者の小説家・荒木源が手掛ける本書より、冒頭部分を試し読みとして公開いたします。
***
午前七時十分。社員食堂は無人、少なくともそれに近い状態であるべきだった。
七時からの勤務が認められており、食堂は休憩所としても位置付けられているから同時に開放されるものの、食事の提供などはもちろんまだだ。
ところが。
エレベーターを降りて入口までやってきた加納英司の足が止まった。
これか──。
二百人近く入るスペースだが、申し合わせたようにみな奥のほうに席をとっている。といってぎゅうぎゅうに集まるわけでもなく、二、三人のグループがある程度だ。全部で十五人くらいか。
加納が中に入ると、気づいた者たちがいぶかしそうな、そして迷惑そうな表情を見せた。
構わず近づく。向こうは慌てたように、それぞれ手にしていた雑誌や新聞、スマホに視線を戻し、もう目を合わせようとはしなかった。
誰のそばに行っても反応は似たり寄ったりだ。時間を潰すもののほか、持ち込んだのだろう飲食物をテーブルに広げている。
外見だけで確かなことは言えないけれど、おそらく全員五十代以上。ほとんどが男性。もっとも、その年代の社員の構成比通りでもあるだろう。
さらに進むと、いくつか先のテーブルから、荷物をまとめた男がそっと立ち上がった。背中を向けて遠ざかってゆく。後ろ姿に見覚えがあった。奥地文則、人事課のシニアだ。
テーブルを回り終わった加納も無言のまま食堂を出た、ほっとした空気が伝わってきた。エレベーターホールに奥地はもういなかった。階段を駆け下りているのかもしれない。
朝日を浴びて輝く大手町のビル群を大きな窓から眺めながら、加納は、自分に与えられた仕事に思いを巡らせた。
昨日、出社初日の加納は、挨拶に行った常務の三枝義信から、耳慣れぬ言葉を聞いたのだった。
「妖精さん?」
応接セットの向かいで三枝はこくりとうなずいた。
「朝早く社食に行けば見られますよ。フレックスを目いっぱい使って、タイムカードを押したらすぐやってくるんです。ほかの社員が出社してくる九時ごろには職場に戻るが、しょっちゅう席を離れてどこかぶらついている。三時には退社。なかなか姿を見られないから『妖精さん』というわけです」
「はあ」
「仕事など何もしていません。言葉は悪いが、給料泥棒です」
紺の三つ揃いを几帳面に着こなした三枝は悲しそうに首を振った。
「そういうシニア社員の人件費を本当は──例えば、海外での拠点整備に充てたいところです。国内市場の拡大が見込めない中で、これからの生保には最重要ポイントですから。あるいは業務のデジタル化。AIも取り入れていかないと。まったなしですが、資金がいくらあっても足りません」
「ふうむ」
「加納さんに、彼らを何とかしていただきたいと思っています。速やかに」
「なるほど」
そう応じたものの、加納には戸惑いもあった。
年度替わりに合わせる恰好で、外資系のクレジットカード会社から転職した。
新卒で入ったのは証券会社だったが、どちらでも多くの期間を人事畑で過ごした。
いわば金融系人事のエキスパートとしてキャリアを積んだところで、大手生保の一つに数えられる永和生命が、構造改革推進室長という肩書を用意して迎えてくれたのだ。
新設された部署で当面は部屋も人事課と一緒だけれど、自由に腕を振るってもらえばいいという、まだ四十二の年齢を考えれば破格の話だった。
ただ、シニア対策をメインで担当するとは聞かされていなかった。加納がやりたかったのは、近年どの業種でも重要性が高まっている男女共同参画とか、残業の削減といった仕事だ。面接でも主にそういう話をして採用されたから、関わらせてもらえると思っていた。
「もちろんいずれはやっていただきますよ。妖精さんたちを絶滅させたら」
「絶滅──ですか?」
温厚そうな三枝の口から出た穏やかならぬ言葉にぎょっとして、加納は訊き返した。
「人件費の問題は大きいと思いますが、生涯現役がうたわれる時代です。政府も定年のさらなる延長を目指してるわけじゃないですか。いずれは六十五歳定年、いや七十歳ということになってくるのでは」
「だからこそです」
静かな、しかし断固たる口調で三枝は言った。白い指を顔の前で組み合わせて続ける。
「しがみついてもいいことはないと分かってもらうんです。でないと会社はとことん食い物にされてしまいます」
「能力開発によって、生産性が上がれば妖精さんじゃなくなりますよね」
「能力開発ですか」
苦笑が唇の端に浮かんだ。
「彼らに開発できるような能力が残っているとは残念ながら思えないのです。時間と労力の無駄でしょう」
そこまで言われたら加納は黙るしかない。人事担当役員でもある三枝は、加納を採用してくれた恩人だ。
「辞めてもらうしかありません。加納さんに期待しています。まさに当社の将来をゆだねるつもりなんです」
「分かりました。こちらこそ、よろしくお願いします」
加納は頭を下げた。
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