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- 仕事のためには生きてない
- 価格:1,980円(税込)
『ミカゲ食品は「スマイルコンプライアンス」の精神で、信頼回復に努めてまいります』
異物混入騒動への社長の発言が炎上した翌日、35歳の多治見勇吉は、〈スマイルコンプライアンス準備室〉に異動となる。実体不明の社長の言葉を形にしろというのだ。
社長に忖度する役員の無茶ブリ、会議のための会議、終わらぬ資料作り。趣味のバンド活動が最優先だった勇吉も、仕事漬けの毎日に。そんな中、バンド仲間が余命宣告を受ける。
「自分はどうして、こんなに働いているのだろう」
よりよく働ける職場を目指し、勇吉の奮闘が始まる。
現在も〈勤め人〉として働きながら小説を執筆している、作家・安藤祐介が手掛ける本書より、冒頭部分を試し読みとして公開いたします。
プロローグ
三十五歳になると、健康診断の検査項目が増える。
職場指定の診療所で、検査衣姿の多治見勇吉は生まれて初めて胃のレントゲン室に入った。
看護師から手渡された白い紙コップは映画館のジュースのレギュラーサイズぐらい大きく、その上ズシリと重い。
「では多治見さん、そちらをゴクリ、ゴクリと一気に最後まで飲み干してください」
勇吉が子供の頃、父親が言っていた。
〈おじさんになるとバリウムを飲まんといけん。あげな不味いもん、罰ゲームじゃけえ〉
だから勇吉は子供の頃から、バリウムというものを「おじさんが飲む物」だと思っていた。
その「おじさんが飲む物」が、今まさに目の前にある。
勇吉は紙コップの縁に口を付け、ぐいと傾けて「おじさんが飲む物」を胃へと流し込む。
確かに、不味い。さらに、舌触りも喉越しも気持ち悪い。液体というより、ドロドロした固体に近い。前日の夜から絶食した挙句、こんな不味いものを飲まされるなんて、理不尽極まりない。
目を固く閉じて、なんとかバリウムを飲み干した。
「げっぷは我慢してください。げっぷが出たらもう一度バリウムを飲んでいただきます」
看護師が笑顔で注意事項を説明する。最初に粉末状の発泡剤を少量のバリウムで飲まされており、胃が膨らんでいるのだ。
勇吉は絶対にげっぷはするまいと決意し、ティッシュペーパーで口の周りを拭った。
それから卓球台のテーブルを垂直に起こしたような細長い診察台に背中を付けて立たされる。ガラスで仕切られたブースの向こうにはレントゲン技師がいる。両手で取っ手を握ると診察台が倒れる。マイクを通したレントゲン技師の指示に従い、何度も寝返りを打つ。
「右回りに体を二回転させて、腰を少し浮かせて。息を吸って。はい、そこで止めて」
硬い板の上で何度も回転する身体的苦痛と、滑稽な動作を続ける心理的苦痛。
バリウムを胃の内壁にまんべんなく行き渡らせて撮影するためらしいが、心身ともかなり辛い。
診察台が大きく後傾すると、頭に血が上る。げっぷが喉元まで込み上げてくる。
「はい、次は腹ばいになって、息を吸ってー。はい、止めて」
本当に、まるで罰ゲームのようだ。理不尽な検査は、なかなか終わらない。
早く終わってくれないかと願いながら、勇吉は俄かに三十五歳を実感した。
思い起こせば、子供時代の自分から見た三十五歳の男なんて、完全におじさんだった。
もう三十五歳なのか、それとも、まだ三十五歳なのか。勇吉は奇妙な考えに囚われながら、傾く診察台の上で込み上げるげっぷをこらえた。
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