『イサの氾濫』
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人はなぜ「はみ出し者」を待ち望むのか 親戚内のこまったおじさんが面白いワケ
[レビュアー] 佐久間文子(文芸ジャーナリスト)
どうしようもないはみ出し者についてだれかに語るとき、人はなぜ生き生きするのだろう。
故郷の青森・八戸に戻った主人公将司に、彼らの叔父にあたる「イサのじちゃん」こと勇雄の暴力を語って聞かせるいとこの仁志も、勇雄の幼なじみで教養人である角次郎も、イサその人が乗り移ったかのように、彼の奇矯なふるまいを南部弁でユーモラスに活写してみせる。
「来て座るなり、キョロキョロしてよ、コダツの天板持ぢ上げで、天板どコダツ布団のあいださ、出刃、スッと入れるんだ」「携帯電話ばテーブルさ置ぐおんた感覚(かんかぐ)だべ。いわば、『携帯出刃』せ、な」
酔って刃物をちらつかせながら相手を刺すときは「浅刺し」、あるいは柄で殴るだけにとどめたり。親戚中がもてあます乱暴者でありながら、気弱でシャイな一面も持つ。そんな叔父への思いが、同じように父親との関係がうまくいかず、四十歳を過ぎて東京での生活もいきづまった将司の中でふくれ上がっていく。
イサのことを小説に書けないか。夢想する将司は、「まづろわぬ人(ふと)」であるイサを、古代東北の蝦夷(えみし)のイメージに重ねる。自分の中にあいた空っぽの穴をイサの記憶で埋めようとする将司だけでなく、まっとうな暮らしを送っているらしい仁志や角次郎のイサを語る声もはずんでいるのは、震災後も不満を口に出そうとしない、東北人のがまんづよさに悔しさを感じ、強引に壁をぶち破るイサ的存在を待望する気持ちがあるからだろう。
久しぶりのクラス会で、心ない級友に対して将司は暴力をふるってしまうのだが、その帰り道、彼は唐突に覚醒する。「おらが、イサだっ!」。将司はイサになり、イサは複数になり、幻影の中で馬に乗って疾走するイサたちは、東京へ向けて怒りの矢を降らせる。そのとき私たちは、長いあいだ封じ込められていた心優しき人たちの声が、何重にも彼らを取り巻き反響するのを脳内で聞く。