小島慶子は『翻訳できない世界のことば』を読み今までモヤモヤしていた気持ちにぴったりな言葉を見つけた

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翻訳できない世界のことば

『翻訳できない世界のことば』

著者
エラ・フランシス・サンダース [著]/前田まゆみ [訳]
出版社
創元社
ISBN
9784422701042
発売日
2016/04/11
価格
1,760円(税込)

小島慶子は『翻訳できない世界のことば』を読み今までモヤモヤしていた気持ちにぴったりな言葉を見つけた

[レビュアー] 小島慶子(タレント、エッセイスト)

小島慶子
小島慶子

 会社に入って1年目の冬に、茨城の平潟港から船に乗って、アンコウ漁のロケに行きました。真夜中の海を行く小さな漁船の揺れは激しく、乗り物酔いしやすい私はかなり辛い思いをしたはずなのですが、その記憶は残っていません。覚えているのは、満月が海にまっすぐな光の道を作り、凍てつく夜気の中をカモメが飛んでいたこと。忘れがたい美しい光景でした。それを「モーンガータ」というのだと、つい最近知りました。スウェーデン語で、水面に映った道のように見える月明かりのことだそうです。
 その頃の私は、いつも胸の底に穴が空いているようなすううすうした心持ちでした。孤独を忘れようと、背伸びして近所のバーでバーボンを飲んでみたり、あてもなく深夜の世田谷を歩き回ったり。そんな時に見る家々の窓明かりは胸を締め付けるように切なく、まるで死んでしまった自分が懐かしくこの世を眺めているような気持ちになったものです。赤の他人の家なのに不思議だなあと思っていたのですが、それは「ヒラエス」だったのですね。ウェールズ語で、帰ることができない場所や永遠に存在しない場所への郷愁と哀切の気持ちを、そう呼ぶのだそうです。心安らぐことばかりではなかった家族との記憶が、そんな気持ちにさせたのかもしれません。
 自分を罵ることに疲れ果てて、誰かに認めてほしくてたまらなかった私は、周囲の人にとっては厄介な若者だったでしょう。変化したのは、その後、夫と出会い、子供たちに恵まれてからです。あれ?いつの間にか心の底の穴が塞がったぞと、ある日気付きました。少しずつ、不完全な自分を労わることができるようになったのです。それはきっと「ナーズ」のおかげ。ウルドゥー語で、誰かに無条件に愛されることによって生まれてくる自信と心の安定のことです。ナーズ、大事だね。
 かつての迷える若者も44歳となり、今は、必死で働く毎日です。仕事のある日本と家族と暮らすオーストラリアを往復する生活も3年目。忙しくて、ついつい食事もおろそかになりがち。そんな時の強い味方はバナナ。ぶら下げておいて、もいで剥いて食べるだけ、便利! せっかちな私の「ピサンザプラ」は1分半くらいかなあ。あ、これはマレー語で、バナナを食べる時の所要時間のことです。
 世界には、いろんな「あの感じ」を表す言葉があります。「あの感じ」を共有する人々の間ではおなじみでも、違う言語ではピッタリした単語が見つからない……そんな言葉を集めたのがこの『翻訳できない世界のことば』。日本語では「侘び寂び」や「積ん読」などが採用されています。言葉から、人々の暮らし振りも窺えて面白いです。イヌイット語で「イクトゥアルポク」とか。誰か来ているのではないかと期待して、何度も何度も外に出て見てみること、だって。
 作者のエラ・フランシス・サンダースの温かみのある挿絵も素敵です。今までモヤモヤしていた気持ちにぴったりな言葉が、見つかるかもしれません。

太田出版 ケトル
VOL.33 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

太田出版

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