宮部みゆき エッセイ「平成お徒歩日記のさわりさわり」―作家生活30周年記念・秘蔵原稿公開

エッセイ

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平成お徒歩日記

『平成お徒歩日記』

著者
宮部 みゆき [著]
出版社
新潮社
ジャンル
文学/日本文学、評論、随筆、その他
ISBN
9784101369211
発売日
2000/12/22
価格
572円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

宮部みゆき エッセイ「平成お徒歩日記のさわりさわり」

[レビュアー] 宮部みゆき(作家)

宮部みゆきさんの紀行文『平成お徒歩日記』刊行を記念して、ご自身が本書の魅力を全力で解説! 編集部がいかに過酷なことを宮部さんに要求していたかが分かる、涙涙のエッセイです。

 ***

  前々口上

 宮部みゆきさんが汗と涙を絞りに絞り、いにしえの文士のペンダコさながら、足にマメを作って、まとめあげた紀行文『平成お徒歩日記』(六月刊。お徒歩日記七帖+エッセイニ篇で構成)、その“予告編”であります。「これを読んだあなたは、きっと全文を読みたくなる」とお呪(まじな)いをかけつつ、流した汗と涙のひとしずく、ふたしずく“一番絞り”のはじまり、はじまり。(編集部敬白)

  前口上

 このおかしなタイトルの本は、わたくし宮部みゆきの初めての小説以外の単行本であります。小説以外の企画物のエッセイを書いたり、それを本にまとめることをずっと渋っていたわたしが、本書だけは楽しくつくりあげることができました。

 タイトル同様なかみもオカシな本、読者の皆様が「江戸を歩いてみようかな」「東京を見学してみようかな」などと思い立つきっかけとなり、鞄やポケットのなかにぽんと放り込んで、連れ歩いていただければ幸せです。

 ところで、『お徒歩日記』シリーズが平成六年の夏に「小説新潮」誌上で掲載が始まったころ、これを「おとほにっき」と読むヒトびとがおりまして、ミヤベはほうと思いました。多数の文筆業者の支持を受けるワープロソフト「一太郎」でも、普通に「かち」と打ち込んで変換したら、「徒歩」の二文字は出てきません。そこで試みに、国語辞典を引いてみました。三省堂の新明解国語辞典(第五版)です。

 ***
 かち【徒】(1)「徒歩(とほ)」の意の雅語的表現。(2)「徒侍(かちざむらい)」江戸時代、乗馬を許されなかった下級武士。
 ***

 というわけなんです。うーん、雅語ね。ミヤベ一味のお徒歩に優雅なところはかけらもないと思うけど、でもちょっと嬉しいですね。

 それでは皆様、お徒歩の旅へ。出立前に靴紐をきっちり締めることをお忘れになりませんように。

  「平成お徒歩日記」其ノ壱 真夏の忠臣蔵

「吉良邸討ち入りを終えた赤穂義士の引き上げ道を歩くの企画、編集長からゴーサインが出ました」

「わ、嬉しい。で、決行日はいつごろ?」

「雑誌掲載の都合もあり、七月半ばはどうでしょう」

 ミヤベ、沈黙。七月半ば?

 この空梅雨の、この暑さ。これから推すに、七月半ばはもう、きっとギンギンの猛暑だろうな……。

 でも今さら引っ込みもつかず、「ははは」と笑うミヤベ。日めくりは容赦なく、めくられてゆきます……。

  其ノ弐 罪人は季節を選べぬ引廻し

 さて、第二回目はどこを歩こうか?

「前回は、言ってみれば『武家もの』でしたよね。今回は、町場の暮らしに関わる道筋を選びたいところですが……」と、担当のニコライ江木氏はおっしゃる。

 わたしの頭に、ふと魔のようなものがかすめました。

「うんと不吉なコース取りをしてみるというのも、一興かもしれませんぞ」

「不吉というと?」

「ほら、例の引廻し。『市中引廻しの上、獄門』ていう台詞は、テレビの時代劇とかでもお馴染みでしょ? でも、あの正確なコースっていうのは、案外知られていないんじゃないでしょうか」「そうすると、出発点はやはり伝馬町の牢屋敷。ゴール先は二ヶ所になりますね。刑場の、小塚原と鈴ヶ森」

 引廻しは、江戸中引廻と五ヶ所引廻の二種類ありました。江戸中引廻しは牢屋敷から出て牢屋敷に戻るというコース。「江戸中」の言葉どおり、当時の江戸中のぐるり。

「これだと街中ばっかりだし、刑場が入らないのでツマラナイ」

 と気楽に申し上げ、五ヶ所引廻しを選んだのでありますが、

「これでも合計何キロになると思いますか? 二十キロですよ」

にじゅっきろ。目が点になりました。

「えどのひとびとはけっこうねんちゃくしつだったのでありますね」と、オドロキのあまり漢字も忘れてお子さまに戻ってしまったミヤベ……。

  其ノ参 関所破りで七曲り

「前回の、毒婦みゆきというのはウケましたね。毒婦シリーズというのは、どうですかね?」

「だけど、わたしあれで磔になっちゃったんじゃない?」

「ですから、それですよ。磔の寸前に助け出されて逃亡したというわけ」

 なんと、西部劇のようではないか。

「逃げ出して、江戸を出奔(しゅつぽん)?」

「そうです。その場合、どこへ行きますかね?」

 二秒ほど、ミヤベ沈黙。ニコライ江木氏にんまり。ややあって、同時に言うことには……

「そりゃやっぱり、箱根だよね!」

 という次第で、毒婦みゆきの第二章、箱根関所破りで逃亡の巻ということに決定したのであります。

  其ノ四 桜田門は遠かった

「『日本の名城』を数えあげるとき、そのなかに江戸城は入ってるんですかね?」

ほほう……そういえばそうですね。

「そうか、あの場所を『江戸城』って意識したことないでしょ。皇居だと思ってるから」
「史跡としての江戸城って、案外盲点になっているかもしれないですよ」

 というわけで今回は「史跡・江戸城」一周コースと相成りました。決行日は平成七年十二月十五日、うららかに晴れた青空の美しい日でありました。

  其ノ伍 流人暮らしでアロハオエ

 時折、具体的な「提案」が舞い込んでくることがございます。

「神君伊賀(しんくんいが)越えルートを踏破しましょう」

「秀吉の中国大返しの再現は?」

「どうせなら大山(おおやま)参りですよ、やっぱり」

「後醍醐天皇の隠岐(おき)からの脱出、これをミヤベさん、身を以(もっ)て体験したらどうです?」

 とどめの一発は、これ。

「やはり遣唐使というものが基本ではないかと……」

 その脇で、お徒歩担当の編集者の頭に、ふと閃くものがありました。

「後醍醐天皇……」と、氏は呟きました。

ミヤベ大狼狽。「嫌だよ、小舟で脱出なんてとんでもない!」

「いえいえ、そうじゃないですよ。隠岐じゃないです。そういえば流人という手があるなあと思っただけで」

「どこへ流されるの」

「八丈島ですよ、八丈島!」晴れ晴れと申します。

毒婦みゆき、第三弾。どうやらミヤベ、八丈島に流されることになりそうなんです。

  其ノ六 七不思議で七転八倒

 一年に二度、猛暑と寒波の時期ばかりを選んで、ミヤベミユキとその苦力(くーりー)部隊が泣き泣き全国を彷徨するというご無体な企画も、今年で四年目に突入したのでありますが、その記念すべき四年目のとっ始め、平成九年一月のお徒歩日記が、ほかでもないミヤベの急病のためにフッ飛んでしまったのであります。

「アンタもよく病気する人だねえ……」

 と嘆息したアナタは、実に記憶力のすぐれた方です。そう、そもそもお徒歩日記の企画は、歩いて歩いて歩き回ってミヤベの腎臓結石を治そう! という意図のもとに始まったのでした(「江戸人の距離感を足でつかもう」ということではなかったのですか、……という声も聞こえてきますが、さておき)。

「病後のお徒歩ですから、なるべく楽なコースにしましょう」

 とのご提案があり、さすれば――と決まったのが、今回の企画です。

 題して、本所七不思議の今と昔。

 どこそこの七不思議、なんとかの七不思議と、ある場所や地域、建物や人物にまつわる謎めいた事実を集めたり創作したりして語り伝える――という習慣を、わたしたち日本人は、いつどこで獲得したのでしょうか。ひょっとするとこれが、「物語をつくり、それを周りの人たちに語って聞かせる」という事の原始的な形のひとつだったかも知れません。

  其ノ七 神仏混淆で大団円

 ミヤベはふと思いつきました。

 ――お徒歩のラストには、江戸の人たちが楽しんでお参りに行ったところを回ったらどうかな?

「ねえねえ、善光寺とかお伊勢さんとか大山参りとか江ノ島の弁天さまとかあっちこっち行こう!」

 結局、善光寺参りとお伊勢参りのセットということになったわけですが、いよいよ決行という数日前に、わたしが所属する大沢オフィスの親分、大沢在昌さんに、今度のお徒歩は善光寺と伊勢神宮だと申しますと、

「なんか、すごい神仏混淆じゃない。いいのかよ?」

 と、アヤブまれてしまいました。うむ、確かに。

 でも、考えてみると、江戸の人たちもそうだったんですよね。敬うべき八百万の神様がおわしまし、尊ぶべき仏様もたくさんおわしまし、お祀りすべきご先祖様もたくさんいますというのが、この国の習わし。実はこれ、がっちりと強固で揺るぎない信念は与えてはくれるものの、実は融通がきかず凶暴な一面を併せ持つ欧米中東の絶対神信仰に比べると、とても穏和で温かい「敬虔」のあり方なのではないかと、ミヤベはつくづく考えたのであります。

 さてさて、本編ではこの後にもう二篇のエッセイが入っているのですが、どうも紙幅がつきそうでありますので、当座は仕舞(しまい)とさせていただきます。それでは皆様、再見(サイチェン)!

新潮社 波
1998年6月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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