主婦から小説家へ──第54回文藝賞受賞作『おらおらでひとりいぐも』刊行記念対談

対談・鼎談

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おらおらでひとりいぐも

『おらおらでひとりいぐも』

著者
若竹 千佐子 [著]
出版社
河出書房新社
ジャンル
文学/日本文学、小説・物語
ISBN
9784309026374
発売日
2017/11/17
価格
1,320円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

主婦から小説家へ──『おらおらでひとりいぐも』刊行記念対談

[文] 河出書房新社

 多面的に読める小説

保坂 桃子さんはもともと左利きなんだけど、それでは体裁が悪いといって子どもの頃に親から矯正されているんだよね。そこで、利き手の矯正には「ばっちゃの入れ知恵もあったらしい」という一文が入る。これは、さっき話した押したり引いたりという点で、いちばん大事な箇所だと思う。桃子さんは記憶の中ではずっとばっちゃのことを美化しているんだけど、実は桃子さんの人生を困らせたのは、ばっちゃなのかもしれない。
若竹 そうなんですよね。箸や鉛筆を右手で持つとばっちゃんは褒めてくれて、桃子さんはそれで自分を賢いと思うんですけど、元々の利き手じゃない右手には力が入らない。それで右左がわからなくなってしまう。ばっちゃんの愛情に応えたいと思うから、自分に余計な縛りができてしまうんです。
保坂 その後に、かくれんぼの最中にひどいやけどを負って、「結局ひと冬診療所に通った」というくだりになる。こういうのは普通PTSD的な話になるんだけど、「やけどしたのは右足だった。おかげでおらはもう右に悩まなくなった」って、ここも不思議な転調で、伸びやかな流れ方をする。しかも、診療所に通ったひと冬のことが、「すべてなつかしくてあたたかい」と締めくくる。
 この子ども時代のくだりは最初のところで「嫁ぐ前の叔母たちの住むにぎやかな故郷の家」と書いてあって、この感じは多くの人が共有している。僕の場合はおふくろの実家で、田舎の大家族を知っている人はこの一言でにぎやかな家の雰囲気がわかる。年をとるとそれがない時間を生きているという感覚を、みんなが持っているから。だからこそ普通だったら、こうしたにぎやかさがなくなってしまったことの悲しみ一色で描いて失敗するんだよ。でも若竹さんは年齢を重ねているから、人の心が一色ではないことがわかっている。だから小説自体の気持ちも一色にならないんだよね。すべて小説に関わる人は、この作品でもう一度、ちゃんと自分を思い出すべきだなと思う。桃子さんには、自分が生きてきた時代や信じてきたものが噓だったんじゃないか、みたいな感覚があるんじゃないですか。
若竹 噓というか、若い頃はその場その場でものを見ていたのが、年をとると、長いスパンで見るようになります。人も物もこうなってああなってしまったんだと、若い時とはまったく違った枠組みで捉えられるようになります。大事だったものが、なあんだこんなものに拘っていたのかとか、過去をすべて美化はしないけれど、滅びてなくなってしまうものに、たまらなく悲しいと思うことはあります。
保坂 桃子さんの年代の人は年をとってから、違うやり方をすべきだったんじゃないかって、みんな思っているよね。時代はどんどん悪くなる一方だから。磯﨑憲一郎なんてそればっかり書いている。
若竹 そうですね。私の実家はすでに空き家で、両親が一生懸命がんばって大事にした家だから、思い出すとふと泣きそうになります。でもそれは私たちが大人になったということだからしょうがないことでもある。時間がそうなったんだから。生きるというのは、そういうことなんですよね。
保坂 にぎやかな家にいた子どもの頃には、まさかその家から人がいなくなるとは思っていないでしょう。
若竹 思わなかったですよね。
保坂 僕らのお祖父さんの世代の頃には、この家はずっと大家族でいくんだと思っていたんです。そして親の世代というのが大家族最後の住人で、大家族ではなくなっていくことを目撃した人たち。僕らは、そんな親たちを見ていた世代ですよね。
若竹 そうですよね。親世代は、家の存続みたいなことを自分の生きる柱にしてきて、ところが私たちは都会に出て学問をさせてもらって、その結果、都会の住人になって、親の望んでいたこととは別の形になった。私は十歳の時に東京オリンピックがあって、当時親は四十代ですけど、これから新しい時代が始まる高揚感があった。親世代は自分たちの世界を取るに足らないと思い、自分ができなかった学問を子どもにはさせて、羽ばたいていってほしいと思って、一生懸命働いた親たちなんですよね。それが彼らの死後いまのようになることは寂しいし、申し訳ないと思うんです。でも私なんかはいま、逆に土俗性に回帰して、親がここから羽ばたいて欲しいと思っていた遠野の風土とか、そういうものに帰っていきたいと思っています。家といった形では残せなくても、父や母の想いは、言葉で残してあげたいと思います。だから、私のベースは土俗性とか方言なんですが、それで生活感の滲む言葉の厚みを描きたいと思っています。
保坂 最後のシーンで孫のさやかが桃子さんに会いにくるけど、選考会で町田さんはこのラストについて、この時もう桃子さんは死んでいるんだと言っていた。けど、僕と家内は生きていると思った。でもこれはどっちでもよくて、死んでると読んだら死んでいて構わない。生きていて孫が来たのは本当だと思えば、それで構わない。選評にも書いたけれども、これは多面的に読める小説なんだよ。読んだ人が別のことを言うのはいい小説の証拠で、大事なことは、どっちかに決めつけて解釈を押しつけるような批評を書かないことだよね(笑)。気持ちは一色ではないから、これは悲しいんだとか嬉しいんだとか、そういう問題じゃなくどうとでも取りうる、広がりがあることなんだということを見なきゃいけないんだよ。僕の妻は、マチスの「ダンス」っていう、裸の女たちが手をつないでいる有名な絵を、ラストの方で思い出したって、ぜひ桃子さんの作者に会ったら伝えてくれと。
若竹 ラストシーンは、桃子さんの幸せって何だろうと思いながら書いていました。人はきっと自分の人生を納得してこちらからあちらへ「家移り」がしたいのだと思います。桃子さんの最期を慰撫するのは何だろう、と思って。皆さんが様々にイメージを膨らませて読んでくださって本当に嬉しいです。マチスの「ダンス」だなんて思ってもみなくて光栄です。

河出書房新社 文藝
文藝2017年冬号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

河出書房新社

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