影ぞ恋しき 葉室麟(はむろ・りん)著

レビュー

2
  • このエントリーをはてなブックマークに追加

影ぞ恋しき

『影ぞ恋しき』

著者
葉室 麟 [著]
出版社
文藝春秋
ジャンル
文学/日本文学、小説・物語
ISBN
9784163908953
発売日
2018/09/13
価格
2,106円(税込)

書籍情報:版元ドットコム

影ぞ恋しき 葉室麟(はむろ・りん)著

[レビュアー] 島内景二(国文学者)

◆和歌と武士道 投ずる一石

 江戸時代の激動期を、佐賀の小城(おぎ)で生まれた夫婦が、美しく生き抜いた。王朝和歌のように優美な咲弥(さくや)と、『葉隠(はがくれ)』から抜け出たような武士道の化身・雨宮蔵人(あまみやくらんど)である。

 和歌や武士道という普遍的な文化が、野心と憎悪に満ちた権力構造に一石を投じ、社会を少しずつ変えてゆく。

 昨年末に急逝した葉室麟の遺作『影ぞ恋しき』は、共に直木賞候補作となった『いのちなりけり』と『花や散るらん』の続篇であるが、これ一作でも強烈な存在感を放つ。

 夏目漱石の『こころ』が、『彼岸過迄(ひがんすぎまで)』『行人(こうじん)』に続く後期三部作の最終作でありながら、単独でも永く読み継がれているように。

 葉室は、近代日本の闇を、江戸時代に投影させる。五代将軍徳川綱吉と柳沢吉保(よしやす)が握る権力に、朝廷、大奥などが複雑に絡み合い、苛烈な政治闘争が起きた。欲望の渦は、赤穂浪士の討ち入りを招く。

 政治的な敗者である吉良上野介(きらこうずけのすけ)と、切腹した大石内蔵助(くらのすけ)の双方を高く評価する葉室の歴史観は公平であり、人間の心の真実に肉迫している。

 葉室は、正しい政治とは何かを、真っ正面から問う。庶民を幸福にする政治が、なぜ行われないのか。

 葉室のメッセージは、咲弥と蔵人の生き方に託された「世界への希望」にある。希望の源は愛であり、友情であるが、それらは命がけの行動によってしか手に入らない。

 『影ぞ恋しき』では、綱吉の政権を支えた柳沢吉保を斥(しりぞ)け、兄の六代将軍家宣(いえのぶ)と共に理想の政道である「正徳(しょうとく)の治」の実現を目指す松平清武(越智右近)の生き方も心を打つ。その清武と、我らが蔵人は、深い友情で結ばれながら、死闘を展開した。武芸者・隠密・学者たちも、それぞれの思いをぶつけ合う。

 この命がけの戦いがあればこそ、希望の火は、蔵人の娘夫婦の世代へと手渡された。

 『影ぞ恋しき』の結びの一文は、「新緑眩(まぶ)しい、薫風の候のことである」。葉室さん、爽やかな風と光をありがとう。この風は、日本社会の上空をずっと吹き続けます。

(文芸春秋・2106円)

 1951~2017年。作家。著書『蜩(ひぐらし)ノ記』『霖雨(りんう)』『蝶のゆくへ』など。

◆もう1冊 

 葉室麟著『散り椿』(角川文庫)。全国公開中の映画「散り椿」の原作。

中日新聞 東京新聞
2018年10月7日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

中日新聞 東京新聞

  • このエントリーをはてなブックマークに追加