『まほろ駅前多田便利軒』
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作者のデフォルメも楽しめる「町田」がモデルの小説
[レビュアー] 北上次郎(文芸評論家)
【前回の文庫双六】夭折、文学者、湘南の三つから連想したのは――梯久美子
https://www.bookbang.jp/review/article/560500
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八木重吉(じゅうきち)は町田生まれの作家である。相原(あいはら)の生家はいま記念館になっている。「おそらく日本一小さい記念館」と言われているそうだ。
その相原を水源とする境川は町田市を縦断して相模湾まで流れている。30年ほど前、境川沿いに江の島まで歩いたことがある。朝8時前に町田を出発して到着が午後1時過ぎ。ジョギングや水泳、マシントレーニングなどを教えてくれるサークルに、週に一度だけ通っていたころの話だ。町田は自然豊かな街で、川沿いを歩いた朝を思い出す。
三浦しをん『まほろ駅前多田便利軒』に、境川という名称は出てこない。第五話に「小山内(おさない)町には、市内を流れる亀尾(かめお)川の最源流がある。まほろ市の最奥部、八王子市との境に位置する小山内町は、小高い丘に囲まれた田園地帯だ」という記述が出てくるが、この「小山内町」が「相原町」で、「亀尾川」が「境川」である。川の名前が違っているだけでなく、横浜線→JR八王子線、小田急線→私鉄箱根急行線(ハコキュー)、神奈川中央交通→横浜中央交通(よこちゅう)と、ことごとく実際の名称を変更し、架空のものにしている。
そもそも、市の名前からして「まほろ市」だ。「まほろ市は東京の南西部に、神奈川へ突きだすような形で存在している」との記述から、まほろ市が町田市であるのは明白なのだが、作者は周到にその現実を避けている。
だから、町田で暮らして40年の私にはとても面白い。これはあそこだよなと考えるだけで愉しいのだ。中には作者がデフォルメしていると思われる記述もあるから油断できないが、それを推理するのも愉しい。
ちなみに、第135回の直木賞を受賞した『まほろ駅前多田便利軒』は、駅前で便利屋を営む多田啓介のもとに、高校の同級生、行天(ぎょうてん)春彦(この男のキャラがいい)が転がり込んできて始まるシリーズで、『まほろ駅前番外地』『まほろ駅前狂騒曲』と続いている。