『隠居すごろく』
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家業を成功させ隠居したはずの糸問屋の元当主が孫のため奮起する
[レビュアー] 杉江松恋(書評家)
真っ当な手段でお金を稼ぐ。
西條奈加『隠居すごろく』は、そのことについての小説だ。これが実に楽しいのである。稼いだお金でご飯が食べられる。そんな当たり前のことが書かれているだけなのに話に引き込まれる。彼らの商売が上手くいきますように、と祈りたくなる。
発端は巣鴨で糸問屋を営む嶋屋の六代目当主・徳兵衛が隠居を決意したことだった。家業を息子に譲って隠居所に引き込んだはいいが、毎日が虚ろで仕方ない。働きづめに働いて、金を稼ぐ以外には何もしてこなかった男だからだ。
そんな徳兵衛の日常に変化が起きる。きっかけを作ったのは遊びに訪れていた孫の千代太だった。泣き虫だが優しい性格の孫は、新しくできた友人・勘七の家が貧しいのが可哀想だとぽろぽろ涙をこぼす。だがそれは、憐れみをかけているようで友人を見下しているのに等しい。人としての正しい道を孫に示すため、徳兵衛は自分にできる唯一のことをもう一度始める。金稼ぎである。
人生のすごろくでいったんは上がりの目を出したはずの主人公が、孫のためにもう一度さいころを振る羽目になる。そのどたばたで笑わせるのが序盤の展開で、その徳兵衛が始めた新商売が意外な方向に転がっていくのが楽しく、展開から目が離せなくなる。なんという吸引力。
徳兵衛はさまざまな人と新しい出会いを持つ。読んでいると、その中に誰か一人は必ずお気に入りができるはずだ。私は、見かけのいい加減さとは裏腹に熱い魂を持った狂言作者の卵・宍戸銀麓(ししどぎんろく)に好感を抱いた。彼と徳兵衛との間には立場や世代を超えた信頼関係ができていく。人と人を結ぶのは心の中身だということが、そうやってさりげなく表現される。
人生は何度でもやり直しがきく、だから諦めるな、と励まされる小説である。自分の生き方はこれでいいのだろうか、とくよくよしてしまいそうな夜に、何度でも読み返そう。