嶽本野ばらロングインタビュー (聞き手=川本直)「恋と革命の美学」 嶽本野ばら著『純潔』(新潮社)刊行記念

インタビュー

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純潔

『純潔』

著者
嶽本 野ばら [著]
出版社
新潮社
ジャンル
文学/日本文学、小説・物語
ISBN
9784104660063
発売日
2019/07/29
価格
3,190円(税込)

書籍情報:版元ドットコム

嶽本野ばらロングインタビュー (聞き手=川本直)「恋と革命の美学」 嶽本野ばら著『純潔』(新潮社)刊行記念

[文] 読書人


嶽本野ばら氏

――東日本大震災の翌年、京都から上京した僕は大学のキャンパスで独り政治闘争を訴える君と出逢い、君に惹かれ、革命に身を投じていく――。二〇一五年二月の「純愛」(『新潮』掲載)から改稿四年余、嶽本野ばら氏の最新刊『純潔』(新潮社)が遂に刊行された。大ヒットした映画『下妻物語』の原作者であり、乙女のカリスマとも呼ばれた嶽本氏は、本書で長年の夢だったという“思想に生きる若者たちの青春群像”を描く。本書の刊行を機に、嶽本氏に本書に込めた思いをお話しいただいた。聞き手は、文芸評論家の川本直氏。(『週刊読書人』編集部)

■第1回 嶽本野ばらの帰還/若者たちの革命を描く

――『新潮』二〇一五年二月号の「純愛」一挙掲載から四年余、「純愛」あらため『純潔』の刊行、本当におめでとうございます。『純潔』は、『それいぬ――正しい乙女になるために』、『ミシン』の頃から一貫して綴られてきたストイシズム、一時期傾倒されていたオタクカルチャー、そしてこれは野ばらさんの愛読者の方でも意外だったとは思うのですが、硬派な政治思想の主題が、渾然一体となった傑作でした。野ばらさんは作家になられた頃から、半生をかけて今回の大作『純潔』を構想していらしたそうですね。

嶽本 というより、作家になったからには、いわゆるそういう政治活動だったり、思想のために生きる若者たちの群像劇みたいなものが書けたらいいなと、ぼんやりとした夢としてありました。でもおそらく自分にはそんな力量が付かないだろうな、いつか書けるようになればいいなと、ぼんやり憧れていただけだったのです。

――野ばらさんは京都のご出身ですが、京都といえば西田幾多郎ら京都学派、生田耕作や浅田彰といった異色・反骨の書き手を輩出した文学的にも独特の土地柄です。そういった土地柄の影響で、そのようなお気持ちを抱かれたのでしょうか。

嶽本 そういうわけでもないのですが、僕は中学生、高校生くらいから、京大界隈の人たちのイベント、映画の上映会だとか西部講堂でのイベントに行って遊んでもらったりして、かなり左寄りの人たちとなんとなく繋がりがあって、中高生くらいの自分の方向性が決まっていく頃に、もうすでにそういう人たちと知り合ってしまっていた。ですから、流れとしては自然に、割と過激な左翼思想のところに勝手にいたんです。多分僕が最後くらいの世代だと思うのですが、京都は僕が小学校を終わるくらいまで共産党が強かったんです。なので、先生たちも左翼系で、小学校でも普通に左的な指導をされた。ですからそれが当然のこととして自分の中の土壌にあって、親はそういうことを嫌う家庭でしたが周りの環境が、結構左寄りだったんです。

――野ばらさんは一九六八年のお生まれですが、その年は世界中で学生運動とカウンターカルチャーが盛り上がり、パリでは五月革命、東欧ではプラハの春、中国では文化大革命が起きた、正に革命の年でした。七〇年代や八〇年代では、現在の二〇一〇年代では考えられないほど、読書する人にとってマルクスをはじめとした左翼の思想書は基礎教養だったと思うのですが、やはりそういったものが『純潔』の思想のベースになっているのでしょうか?

嶽本 同世代ではそんなに影響を受けてはいないと思うのですが、自分がひと世代上の人たちに影響を受けていたこともあって自然に自分のバックボーンになっていたようなところがあります。

――『純潔』内で言及されている思想家のみならず、影響を受けた思想家について教えていただけますか。

嶽本 僕は思想や哲学というのは、すごくオーソドックスに入っているんです。本を読む環境が家にも友人との間にもなくて、独学で本を読んでいて、哲学や思想もどこから入っていいのかわからないから、とりあえずプラトンから入ってデカルト、ニーチェと、そうやって順を追って読んでいったんです。

――ご自分で体系的に学ぶしかなかったのですね。それは逆に極めて王道ではないでしょうか。

■第2回 初期構想/大江・三島・川端

――本書の初期構想のことからお伺いしたいのですが、構想時には『新潮』に掲載した「純愛」とも今回の『純潔』とも違う構想というのがあったのでしょうか。また、毎回徹底的な下調べと取材をなさるそうですが、『純潔』ではどうだったのでしょうか。

嶽本 ほかの作品もそうなのですが、今回の『純潔』も初期構想では、ほぼ固めていないんです。というのもプロットはなくて、毎回なんとなく書き始めてそのまま出来上がる感じで、プロットらしきプロットはない。下調べというのも今回はあまりなかったかもしれません。書こうと思ったときに、大学に入学した主人公の話なので、とりあえず大学を設定しなきゃいけないなと思っていたのですが、ちょうど早稲田の学祭に呼んでもらう機会があって、学祭といってもちゃんとした学祭ではなく、勝手に自分たちで部屋を借りているロリータ&パンクの会のようなサークルの女の子たちがオファーしてくれて呼んでもらったんです。そのときに早稲田のサークルとかが全部載っているような分厚い冊子も借りて、シチュエーションはもう出来たと思っていました。あとは、高速バス・房総なのはな号に乗って海に行ったくらい。実地ということで言えばコミケは参加するだけではなくて、当時はオタク熱が高じて自分で申し込んでブースを出しましたから、そういう意味ではちゃんと足でやってますね。

――「純愛」を『純潔』に加筆修正されている頃、ツイッターで大江健三郎の影響を語っておられました。『純潔』は、戦後にアメリカの占領下で天皇が象徴になってからの天皇小説――深沢七郎の『風流夢譚』、大江健三郎の『セヴンティーン』『政治少年死す』、三島由紀夫の『憂国』『英霊の聲』、見沢知廉の『天皇ごっこ』、矢作俊彦の『あ・じゃ・ぱん!』、島田雅彦の『無限カノン』――の系譜に連なるものだと思います。しかし、『無限カノン』を除き、戦後の天皇小説は時代の状況もあってアイロニカルなものばかりだったのに対し、『純潔』は天皇制というシステムに真っ向からアプローチを敢行していますね。大江健三郎の『セヴンティーン』は性的な欲望で頭がいっぱいで、左翼から右翼に転向した天皇に熱狂する少年が描かれており、極右に大江が憑依したようなメタな小説ですが、『純潔』がそれとは違うと思ったのは、語り手の柊木殉一郎があくまでニュートラルで冷静な、正気の人物だということです。

嶽本 大江健三郎や三島由紀夫の作品は、今回の『純潔』を書く少し前から気になりはじめて読んでいました。実は僕は青春期にちゃんと読んでいなくて、一応目は通して苦手だなと思い、そのまま放置していたんです。けれども大江健三郎を改めて読んだらすごくはまっちゃって。三島に関しても好きではなかったのですが、そもそも僕は太宰治から入っているので、太宰の悪口を言った人という認識で取っ付きが悪かったんです。ですが、三島が読みたくなって読んだり、川端康成はあまり思想とは関係ないですが、こちらも読みはじめて、今まで自分の範疇ではなかった作家の作品を結構読みました。何かこの作品を書くために必要だという勘みたいなものがあったんでしょうね。

■第3回 柊木殉一郎の「純愛」から北据光雪の『純潔』へ

――「純愛」を『純潔』に加筆修正されていく中で、かなりの変更点がありました。野ばらさんは本書の「跋」で「恐らく、両方、お読みになった読者は、この差異に於ける作者の心情を議論することでしょう」と書かれていますが、私は野ばらさん個人の事情によって変更が行われたのではなく、「純愛」から『純潔』までの社会の推移を四年間、野ばらさんが冷静に観察し、認識していたからだと思っています。SEALDsを中心としたデモによる抗議活動は挫折しましたし、新自由主義化が加速しています。現政権の対米従属も露骨になってきました。

嶽本 ちょうど僕がオタクにはまっていた頃に「純愛」を書いていたのですが、今回『純潔』としてヴァージョンが変わって、紙幅が長くなりラストも変わりました。そういう違いはありましたが、自分の中での決定的な違いは、主人公が「純愛」は柊木殉一郎ですが、『純潔』は北据光雪なんです。「純愛」を書いていた頃はオタクカルチャー全盛の頃で、作品の中にも「見えない戦争が今起こっているんだ」という先輩が出てきます。僕自身、当時はそれをものすごく感じていて今は戦時中なんだという意識があったんです。 戦争というのは男の人が戦うわけですから、やっぱり男の人が可哀想で、僕は柄にもなく男の人にシンパシーを感じて同情してしまったというか、大変だなと思ってしまった。でも「純愛」を改稿して『純潔』にするために読み直したりしていたら、あれ? なんか北据が影が薄いぞと思ったんです。やっぱり基本的に自分はカッコいい女の子を書くというのがテーマだし、戦争が起こっていたという仮定で話をすると、戦争で戦っているのは男の人なんだけれど、その戦争がある程度進んで収束に向けていく過程においてはそれを支えている女の人が大変になるんです。それまでの時間の変移みたいなもので、主人公を柊木殉一郎から北据光雪に移そうと思ったんですね。
『新潮』に掲載した「純愛」は革命が成功するのかしないのかわからないところで終わっていて、編集長に「この革命は成功するんですか」と訊かれたんです。作者自体は成功すると思っているのだけれど、成功するかもしれないし、しないかもしれない。成功するとは言い難いよねとしか答えられませんでした。でも、今回の『純潔』では結末が違っています。その前に柊木が述べているのですが、自分たちには国土がない。つまり国がないということは、僕たちがいなくなったときでもそれぞれが新しい福島の国民だと思っていれば、その人は戸籍がどこにあろうとも福島の新しい人間なんだと言います。主義やどこの国に所属しているかとか、革命が成功したか失敗したかではなく、そこの国民になったかどうかはあくまで個人に委ねられるということなんです。

――なるほど。だからこそ北据光雪は、暴力による革命で社会を変えるのではなくて、意識を変えるんだ、ということを一貫して語っているのですね。

聞き手:川本直氏

週刊読書人
2019年9月13日号(第3306号) 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

読書人

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