【文庫双六】極寒のシベリアから東京舞台“熱中症小説”――野崎歓

レビュー

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照柿

『照柿』

著者
高村 薫 [著]
出版社
新潮社
ISBN
9784101347219

書籍情報:版元ドットコム

極寒のシベリアから東京舞台“熱中症小説”

[レビュアー] 野崎歓(仏文学者・東京大学教授)

【前回の文庫双六】常識は用をなさないシベリアの酷寒――北上次郎
https://www.bookbang.jp/review/article/587440

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 極寒のシベリアから、灼熱の日本へ飛ぶこととしよう。ようやく酷暑の夏が終わったばかりではあるが。

 高村薫がデビューしてのち、立て続けに力作を放った頃の印象は鮮やかに記憶に残っている。とりわけ『マークスの山』に始まる、合田雄一郎刑事ものにはしびれた。

 当時、これはミステリか、文学かなどと論争が巻き起こったのは、いわゆる推理小説としては例外的に濃密な文体ゆえだった。とりわけ『照柿』は、うだるような猛暑の描写が全巻を支配。その息苦しさが不思議なことに強烈な快感となる。

 一方の主人公・野田達夫は、東京多摩の羽村にある工場で熱処理工程の工程長代理を務める。作業所には大型炉が並んでいて、達夫はつねに高熱に炙られどおしだ。おまけに自動制御の炉が故障を起こし、不良品が出始めている。

 不測の事態に対処すべき立場の達夫だが、冒頭から睡眠不足に悩まされている。下巻では「最終的に六十八時間に及ぶことになる本格的な不眠」に突入していくのだから恐ろしい。

 合田刑事はといえば、炎天下、拝島駅の人身事故現場で遭遇した女に唐突に恋情を燃やす。こちらも何やら様子がおかしい。達夫は彼の幼なじみ。やがて女は達夫の愛人と判明する。女をはさんで男二人の狂おしい発熱状態がぎりぎりまでヒートアップしていく。

「人生の道半ばにして/正道を踏み外したわたくしは」云々というダンテ『神曲』の冒頭が題辞に掲げられている。異様な暑さのただなかで狂おしく展開される物語のありさまは、ドストエフスキー『罪と罰』を意識してもいるだろう。

 世界文学の古典と対峙する姿勢が頼もしいが、これは温暖化する日本をとらえた小説でもある。途中、大阪では気温三十五度。「ここ十数年でっしゃろ、この暑さは」とタクシー運転手は述懐する。熱中症の語はまだ使われていないが、しかしこれは「熱中症小説」の大いなる達成ではないだろうか。

新潮社 週刊新潮
2019年10月10日号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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