『52ヘルツのクジラたち』
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謎が解けて浮き彫りになるあまりに悲痛な愛の形
[レビュアー] 石井千湖(書評家)
声が観測されているだけで姿は確認されていない「52」は、世界一孤独なクジラと言われる。他のクジラには聞き取れない52ヘルツの周波数で鳴き、単体で海を彷徨っているからだ。『52ヘルツのクジラたち』は、「52」のように帰属するコミュニティを持たない、ひとりぼっちの人々が出会う物語。
主人公の貴瑚は東京から大分県の小さな海辺の町に引っ越してきたばかり。二十代の女性が、働きもせず一軒家に住む。しかも体には刃物で刺された傷があるということで、地域住民の噂の的になってしまう。ある日、貴瑚は腹痛に苦しんでいるところを薄汚れたTシャツを着た少年に助けられる。口がきけない少年は、母親に「ムシ」と呼ばれ虐待されていた。貴瑚は少年に「52」という名前をつける。そして〈わたしは、あんたの誰にも届かない52ヘルツの声を聴くよ〉と言う。貴瑚が52と打ち解けるにつれて、彼女の過去も明らかになっていく。
52の抱えている問題は深刻すぎて、他人が簡単に解決できるものではない。この小説には「考えなしの善意」が苦しむ人をさらに追い詰めてしまう現実も容赦なく描かれている。中途半端な介入では、事態はかえって悪化する。そのことを知っていながら貴瑚が52と対話し、彼の面倒を見ようとするのは、自分も機能不全家族から脱出したサバイバーだからだ。娘に自己犠牲を強いる母親と対決して貴瑚を救った「アンさん」というヒーローがいたのだ。アンさんとは何者なのか。なぜ今はそばにいないのか。貴瑚はどういう経緯で刺されたのか。すべての謎が解けたとき、あまりにも悲痛な愛の形が浮き彫りになる。
貴瑚は大きな喪失を体験した。しかし、52の声を懸命に受け取ることによって新しい人生を切り拓く。愛を注ぎ、注がれる関係は、まずお互いの話を聴くことからはじまると教えてくれる一冊だ。