『書きたい人のためのミステリ入門』
書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます
午前一時のノスタルジア 「ミステリの基礎をはじめから(ていねいに)」
[レビュアー] 新井久幸(編集者)
ミステリの〈お約束〉を解説した新書『書きたい人のためのミステリ入門』は、「yom yom」での連載が基になっている。そもそも、どんな切っ掛けで連載が始まり、本になったのか? そこには、偶然の姿を借りて現れた、子供の頃の忘れられない想いがあった。「yom yom」の〈午前一時のノスタルジア〉に綴られた、執筆秘話。
***
「yom yom」のリニューアルに合わせ、「『ミステリの書き方』みたいな連載をしないか」と西村編集長に持ちかけられたとき、まず最初に思ったのは、「(自社の人間に頼むなんて)経費節減で、原稿料のかからないページを増やそうとしてるのかな?」だった。
内容についてのリクエストは、「作家志望者の中には、伏線とか、フェアとかアンフェアとか、ミステリの基本的なことを良く分かっていなかったり、誤解している人たちがいる。そういう人たちに分かるように、一から解説して欲しい」というもので、なかなかハードルが高い。
一介の編集者の分際で、ご大層なことを書くのはおこがましいから、一旦は「そんな身の程知らずなことできない」と断ろうとしたのだけれど、編集長の憂鬱顔にほだされて、「とりあえず考えてみる」と答えてしまった。
とはいえ本音を言えば、せっかくだから、この機会に書いておきたいと思ったことがないではなかった。この話をもらう前、「新潮ミステリー大賞」のwebページ用に「こんな作品を求む!」という事務局座談会を行っていて、色々と思うところはあったのだ。
トピックになりそうなことを思い付くまま並べていくと、十近くの項目が立った。一項目数枚としても、これだけあれば、何回かは書けるかもしれない。
「二、三回なら書けると思う。とりあえず書くから、読んで判断して」と返事をした。
かくて、「読みたい人、書きたい人のための、ミステリ超入門」の連載が始まった。気分は、「東進ブックス」じゃないが、「ミステリの基礎をはじめからていねいに」である。
連載開始から数ヶ月経って、cakesへの転載が始まった。「yom yom」の一号分を、数回に分けて載せていく。
「三回に分けて転載したいから、一号あたり、最低でも十二枚以上書いて」と、どんどん縛りも増えていく。二ヶ月に一度、一回につき十数枚とはいえ、「連載」はしんどかった。普段、作家に原稿の催促をしている手前、自分の原稿が遅れるわけにはいかない。締め切りって、こんなにすぐ来るものなのか、といつも追われているような気分だった。
連載をリアルタイムで追う人は、そんなに多くない。残念ながら、それは実体験として知っている。だから、反響も特にないだろうと思っていたのだけれど、時々、他社の編集者仲間から「読んでますよ」と声をかけられた。
冷やかし半分だろうとは思ったが、それでも、読んでくれている人がいるというのは嬉しかったし、励みにもなった。
文学賞のパーティーで、ある作家に挨拶したら、名刺の名前を見てからちょっと考えて、「ああ、あの連載の」と言われて驚いたこともある。
中には「あれは、本にしないの?」というようなことを言ってくれる人まで現れるに及び、単純な僕はその気になり、「実現するか分からないけど、本にしようと思えばできるくらいは書いてみよう」と方針を改めた。
具体的な話や自分の経験談を増やし、ミステリには直結しなくとも、ちょっとでも参考になりそうな話はどんどん入れた。記憶の中の「いい話」や「ためになった話」は、積極的に書いた。自分だけのものにしておくのはもったいない、と常々思っていたから、それらを紹介できるのは嬉しかったし、自己満足な充実感もあった。それでも、あまりにミステリと無関係な話は書けなくて、それだけは少し心残りだ。
時期を同じくして、この連載を基に、「新潮講座」で「読みたい人、書きたい人のための、ミステリ入門」という講座も始めることになった。一度原稿で書いた内容ではあるけれど、講座用のレジュメにするとき、「あ、これ書き忘れた」と追加したことは結構あったし、話していく中で発見したことも多い。
連載後、原稿は大幅に改稿することになるのだけれど、その基盤になったのは、講座での経験だった。受講者のみなさんがいなければ、もっと中身の薄いものになっていたんじゃないかと思う。
話は変わるが、子供の頃、なりたかったものの一つが、先生だった。両親が教員だったから、子供の頃は、周りにいる大人のほとんどが教師で、いわゆるサラリーマンがどんな人たちなのか全然分からなかったし、職業といえば真っ先に思い浮かぶのは先生で、逆に言えば、先生しか知らなかった。
先生になりたいという気持ちはその後徐々に薄れはしたものの、なくなったわけではなく、やってみたかった仕事の一つではあったから、講座で先生みたいなことをさせてもらえたのは、小さい頃の夢が一つ叶ったようで、とても嬉しかった。
また、本好きの多くが一度は夢見ることだと思うが、自分の本を出すというのは、やはり小さい頃からの夢だった。編集者になって、別の形で「自分の本」は出し続けてきたけれど、自分の名前で出る本というのは、初めてだし、格別の体験でもあった(とはいえ、これを書いている時点では、実はまだ出ていない)。
どんな意図で声をかけてくれたのかは分からないが、西村編集長の気まぐれな依頼のお陰で、普通ならとうに夢を諦めているこの歳になって、僕は子供の頃の夢を二つも叶えることが出来た。
本当に、どんなに感謝してもし足りない。
最初、「ページ合わせか穴埋めかな」などと勘ぐった自分に、猛省を促したい気分である。新書が校了し、そんな感謝の気持ちで一杯になっていたとき、またもや依頼があった。
この「午前一時のノスタルジア」で、本の宣伝も兼ねて何か書かないか、というのである。そんなことまで気にしてくれて、本当に有難いなあと思った矢先、件(くだん)の編集長は、
「もう締め切りまで時間がなくて、作家に頼めなくなっちゃったんですよ」と爽やかな笑顔で言ったのだった。
前言撤回。
やはり、あの連載も、単なる「ページ合わせ」の一環だったのだろう。
でも、それがなければ本が出ることはなかったのだから、僕としては結果オーライである。