春のこわいもの 川上未映子著

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春のこわいもの

『春のこわいもの』

著者
川上 未映子 [著]
出版社
新潮社
ジャンル
文学/日本文学、小説・物語
ISBN
9784103256267
発売日
2022/02/28
価格
1,760円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

春のこわいもの 川上未映子著

[レビュアー] 横尾和博(文芸評論家)

◆おぼろな世 危うく脆い人間

 著者は物事の輪郭をくっきりと見ている作家だ。人は葛藤を抱え、みな小説の登場人物のように寄る辺ない。だが著者の物事への視点は揺るぎがない。問題意識、つまり哲学が鮮明なのだ。身体感覚を表現する言葉と、思考を化学変化させる哲学が特徴。彼女の対談集を読めば、対談相手に鋭く斬りこむその姿勢に、世界観がよく表れている。改めて著作にふれるとそう思う。

 本書収録の六作品は二〇二〇年の春、感染症の脅威が身に迫り不気味さが漂う時が舞台。冒頭におかれた「青かける青」に著者の問題意識がくっきりと映る。病気療養中の女子大学生が、「きみ」に宛てて書く手紙の形式で、彼女は退院すると外部はそっくり変わっているのではないか、との疑念を抱く。病を得てこの世の見え方が変化するのだ。また死の床につき生を振り返る「花瓶」は、世の中は感染症が起きているが、死を前に世界と自分とは関係がない、と感じる高齢女性。好きな女の子との距離感がずれてくる男子高校生。ある女性作家のファンであったが彼女のスランプへの怒りから、SNSで誹謗(ひぼう)中傷を書き込む女性。過干渉の母親をもつわがままな親友に、深い恨みを抱く作家。美容整形の金のために男性の飲み会に参加して、金銭をもらうギャラ飲みを希望する女子学生。いずれの作品も主人公と他者や世界との変転を描く。登場人物たちが佇(たたず)む情景や場所は、まるで春の朧(おぼろ)である。

 著者はぼんやり霞(かす)むこの世の中で、研ぎ澄まされたしなやかな感性で「現在」を捉える。人は危うく脆(もろ)い。私たちは死が訪れるまで安逸な日常を貪(むさぼ)り、明日は今日の続きであり、明後日は明日の延長にあると頑(かたく)なに信じる。世界が一瞬に変貌を遂げるとは思わない。しかしいま感染症やウクライナ戦争により、私たちは違う場所にいるかのように感じるのはなぜか。著者は自分の哲学を通して、現在の位置を測る。世界が変わったのか、「私」が変わったのか。本書の問いであり「こわいもの」とは人間の心なのだ。

(新潮社・1760円)

1976年生まれ。作家。「乳と卵」で芥川賞。『ヘヴン』など多数。

◆もう1冊

川上未映子著『六つの星星』(文春文庫)。文学や哲学などをめぐる6人との対話集。

中日新聞 東京新聞
2022年4月3日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

中日新聞 東京新聞

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