一人称ではない私 岡田利規『ブロッコリー・レボリューション』

レビュー

3
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ブロッコリー・レボリューション

『ブロッコリー・レボリューション』

著者
岡田 利規 [著]
出版社
新潮社
ジャンル
文学/日本文学、小説・物語
ISBN
9784103040521
発売日
2022/06/30
価格
1,980円(税込)

書籍情報:openBD

一人称ではない私

[レビュアー] 星野智幸(小説家)

星野智幸・評「一人称ではない私」

 驚異的な小説集だ。いともシンプルな方法で、私たちを縛る透明な縄を鮮やかに見せてくれるのだから。

 冒頭の「楽観的な方のケース」は、「私」が近所にできたパン屋にはまり、「彼」と一緒に暮らすようになってパンを一緒に食べ、パン作りにものめり込んでいく話だが、作品の印象はこの内容説明とは著しく異なる。

 それは視点のせいである。「私」の語りによってパン屋の様子が丁寧に語られていくのだけど、五ページ目を過ぎたところで、語り手は「私」のまま、話は私のいないところへと移っていく。パンを買い終わって「風景の領域の外に私が消えて行き、すると次の来客までは、しばらく間が空きました」。そしてその後には、子連れの女性がパンを買いに来た場面が叙述される。けれどその間、「私はすでにアパートに戻っていて」、買ったパンを食べている。

 語り手は視点人物の「私」であるはずなのに、「私」には見も知りもできないはずのことが、平然と語られる。「彼」についても、「私」には知覚できないはずの内心や行動が、「私」の語りでまったく自然に書かれていく。

 読んでいると、ものすごく奇妙な気分になる。書かれている内容はごく些細な日常生活の描写なのに、その語り方が常軌をさらりと逸していくのだから。

 これを常軌に戻すのは、じつは簡単。「私」と書かれている部分をすべて「彼女」といった三人称の言葉に置き換えれば、奇妙さはすっと消えてしまう。つまり、三人称で書かれるはずの小説を一人称で書いた結果、現実にはありえない幻想性が現れているのである。

 これはじつは、三人称で書かれる小説こそが幻想的であることを、逆説的に証している。「神の視点」と呼ばれる三人称で書かれたいわゆる「リアリズム小説」は、本当はリアルでも何でもない。全知全能の視点で書かれた文章を三人称の標準とする、というルールが読者に刷り込まれているがゆえに、自然に感じるだけ。絵画で考えれば、ベラスケスの描く肖像画をリアルと感じる人には、顔の裏側まで一緒に描いたピカソ作の肖像画は奇妙に感じられるようなもの。遠近法のルールが異なる、という違いでしかない。

 視点と人称のつながりが失調している岡田作品の文章は、読み手にとてつもない解放を与えてくれる。私たちは、神の視点という実際には誰のものだか不明な監視システムに、小説を読むさいには骨の髄まで縛られている。それを自然と感じるのは、たんに慣れさせられているからにすぎないことを、人称の言葉の置き換えのみで暴いてしまう!

 この一人称ではない「私」の登場は、あらゆる関係性を相対化する。「私」がパンに「小麦本来の甘み」を感じるのはネットの言葉に影響されてのことだし、これまで食べたパンとの違和感しか感じなかった「彼」が、「これが美味しいということなのだと分かって」いくのは、「私」と毎日そのパンを食べるようになったせい。自分の判断や好みは、必ずしも自分に属しているとは限らないのだ。

 続く数編の短編でも、この方法で次々と私たち読者を囚われから解放してくれるのだが、「ブロッコリー・レボリューション」に至ると、これが悪夢に変わる。

 語り手「ぼく」は、自分のふるったDVの結果、「きみ」がこっそりタイに逃げて送る生活の一部始終を詳述する。作中何度も「ぼくはいまだにそのことを知らないでいるしこの先も知ることは決してないけれども」との断りをリフレインしながら、「きみ」のタイでの解放感や、「きみ」がタイの友人レオテーとかわす会話を事細かに語る。

 DVに及んだ者が、その暴力の被害者の解放を何もかも語る、という事態は、本当の解放といえるだろうか? 暴力をふるわれた人間にとっては、ふるった人間の目や耳や想像力が届かない場所にたどり着くことこそが解放ではないだろうか?

 DVを含め、すべての暴力は、相手を支配するのが目的である。相手の言葉を奪うのも、根源的な支配の形態だ。神の視点というシステムから解放してくれたはずの一人称化は、一方で、特定の語り手による支配を許しもする。

 しかし、おぞましい語りの構造の中で語られるタイの日々の描写は、あまりにも豊かで魅力的でどこか不条理な笑いに満ちていて、読んでいて風通しがよく心地よい。

それは「きみ」が、自分を圧迫してくる「ぼく」及び「ぼく」が象徴する日本社会の支配から逃れたからだ。だが、タイにはタイの暴力支配があり、レオテーはその圧迫を受けている。「きみ」はその現実のやましさから目をそらす。

 巻頭の短編の解放から、「ブロッコリー」に至る閉塞や幽閉の感覚への変化は、この作品群が書かれたここ十数年の世の変化を、精緻に表していると私には感じられる。読めば読むほど怖さが深まるのに、読み続けていたい快楽に溺れさせてくれる小説集だ。

新潮社 波
2022年7月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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