批判的対話空間としてのフェミニズムの再興

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持続するフェミニズムのために

『持続するフェミニズムのために』

著者
江原 由美子 [著]
出版社
有斐閣
ジャンル
社会科学/社会
ISBN
9784641174788
発売日
2022/10/11
価格
2,860円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

批判的対話空間としてのフェミニズムの再興

[レビュアー] 菊地夏野(名古屋市立大学准教授)

 本書はジェンダー研究で最も信頼される研究者の一人である著者が、フェミニズムを振り返り、それが何を成し遂げ何を課題とするのかを論じた書である。近年フェミニズムは大きく揺れている。「#MeToo」などによるオンライン・フェミニズム、それに対するバックラッシュ、アメリカや東欧における中絶禁止政策……。フェミニズムに一体何が起きているのか、冷静に議論することもためらわれる。そのような社会状況に、著者があらためて一冊の本として対峙するのであれば、わたしを含め心を躍らせる読者は少なくないだろう。フェミニズムの本が多数出版されてはいるが、その多くは翻訳やエッセイや一般書籍なので、このような国内の研究書は実は多くない。まずそういった意味で、本書は大きな価値を持っている。

 また本書は第二波フェミニズムの意義と課題の分析を主としている。著者は言うまでもなく、日本の第二波フェミニズムを学問的に担った代表的な存在の一人である。わたし自身も大学の学部・大学院時代に著者の書を読み漁った。著者は必ずしもメディアによく顔を出すタイプの研究者ではないが、ジェンダーや社会科学の研究者であればその名を知らぬ者はいないだろう。著者の、ジェンダーや女性の問題に誠実に向き合い、冷静にしかし怒りを持って、社会学的に分析考察を行う姿勢そのものからわたしは学んだ。

 その著者が、自身も担った第二波フェミニズムを総括するという大仕事にあえて踏み切ったことに敬意を表したい。本書全体が、フェミニズムを中心として、この数十年にわたる世界全体の変動を概観する内容となっており、社会学・社会科学に関心を持つ者すべてに読んでほしい、教科書にも適切な一冊だ。

 そして、本書のモチーフの一つは、ナンシー・フレイザーの第二波フェミニズム批判への応答である。アメリカの政治哲学者であるフレイザーは、「フェミニズムはどうして資本主義の侍女となってしまったのか」という論考を発表し大きな話題となった。フレイザーは、第二波フェミニズムが行ったさまざまな主張や運動が、結果的にネオリベラリズムの浸透に手を貸してしまったのではないかと一石を投じたのである。これに大きな衝撃を受けたと著者は書く。フレイザーのフェミニズム批判を丁寧に論証し、検証したのが本書である。

 わたしは、フレイザーのこの論考を読み、著者同様ショックを受けたが、これは必要な批判だと思った。当時未邦訳だったため、自分のブログで翻訳し紹介したところ、驚くほど大きな反響を得た。確かにフェミニズムに対して辛口の論評ではあるが、これだけ大勢の人が賛同を示すのは根拠のないことではないという確信を持った。フェミニズム自身が受け止め、深めていくべき論題だと考えたのだ。しかし、反応を示したのはわたしと同世代かそれ以下の世代の人々が多かった。フレイザーが批判した第二波フェミニズムの世代から反応が返ってくることはゼロではないが少なかった。おそらく、第二波フェミニストとして著名な人々は、正面から議論することを避けているのかもしれないと思った。そのため著者が、今回本書を書いてくれたことは二重の嬉しい驚きだった。

 フェミニズムは論争と対話の学問である。もちろん本来すべての学問はそうあるべきであるが、歴史を蓄積し、学問が制度と結びついて権威化すると、自由な議論は難しくなる。各分野の権威が出来上がり、権威の主張に逆らう人は少なくなる。だがこれまで周縁だったフェミニズム・ジェンダー研究では活発に論争が行われてきた。その中で不可視であった女性の問題が発見され、社会に提起されていった。であるのにフレイザーの批判が放置され、フェミニズムが賛同する者のみのアイテムになってしまっては、フェミニズム自体の発展が望めない。そこにあえて批判を受けて応答したのは、やはり著者にはフェミニズムをより良い方向につなげていこうという意思があってのことだろう。

 さてその上で、フレイザーの仕事の紹介の一端を担ったわたしから見て、この論争をどう評価できるか考えてみたい。フレイザーの論考は長いものではないが、著者はそれを広げて丁寧に論証している。そのためこの小論ですべて論じ切ることはできないのだが、主要と思われる論点の一部を記しておこう。

 まずわたしが感じるのは、フレイザーが批判した(第二波)フェミニズムと著者が擁護しようとするフェミニズムは少しずれているのではないかということである。著者が指摘しているように、フレイザーはフェミニズムを正確に定義していないため、推測になってしまうのだが、フレイザーはこの論考ではかなり広くフェミニズムを想定していると思う。学問だけでなく、運動としてのフェミニズム、カルチャー・読み物としてのフェミニズム、あるいは人々のイメージとしてのフェミニズム、さらに政治領域でのフェミニズムなどなど。それらすべてをまとめてフェミニズムとしたのではないか。そもそも日米でフェミニズムの規模は全く違う。アメリカでフェミニズムはより浸透し、社会的合意を得ている。そのためバックラッシュやバッシングも大きい。対して日本ではフェミニズムが広まってきてはいるものの、まだまだ一部のものであり、とくに学問のイメージが強い。フレイザーが広くフェミニズムを想定しているのに対して、著者が本書で主に想定しているフェミニズムは、学問領域におけるもの、さらにフェミニズム理論であるように思える。本書全体を読んでも、率直にいうとフレイザーの認識と著者の認識は総合的にはそれほど大きく異なっていないような印象を受ける。違いとしては、フレイザーはアメリカ、あるいは欧米社会に広がったフェミニズム全体を意識してその批判的検討を行っているが、著者はその批判をすべてフェミニズム理論に引きつけて応答しているように見える。そこに齟齬はないだろうか。フェミニズムは学問だけでなくもちろん社会運動であり、思想であり文化・芸術であり、あるいは日々の生活の中にある。その中で学問としてのフェミニズム、またはフェミニズム理論は重要な位置を占めるが、フェミニズム理論の主張がそのまま他の領域のフェミニズムに浸透するわけではない。それぞれの領域は自律的に活動しているし、その領域の中のひとりひとりもまた自律的である。したがって、フレイザーの批判に対して応答するならば、各領域それぞれについて検討する方が本来は妥当だろう。

 そもそもフレイザーがフェミニズムの定義を明確にしていないという批判はあり得る。だがこの論考は短文で、一般紙に発表したものだ。それでも学者であるのだから学術的な手続きを守るべきだという論理もあり得るが、もしそのようにしていたらこれだけ大きな反響が巻き起こったかわからない。フレイザーの批判を聞いたそれぞれのひとがそれぞれのフェミニズムのイメージを思い浮かべ、自分の感じていた違和感や不満をあてはめたのではないだろうか。わたしはこのように多くの人々が異なる定義やイメージを持っていることこそがフェミニズムの魅力なのではないかと思う。議論する際には定義を明確にしていく必要はあるが、領域を超えて、境界を超えて存在するフェミニズムにひとびとが期待し批判をする。そのプロセスから生まれるものに目を向けたい。その意味で、フレイザーの広範な批判に対して慎重に検討を行って応答した本書も、大きな成果の一つだろう。

 また、著者は、フレイザーの第二波フェミニズム批判について「ネオリベラリズムに対して利を提供する利敵行為かどうか」で判断しているとし、それは外在的でありリスクがあるとしている。フェミニズムの家族賃金批判や福祉国家のパターナリズム批判がネオリベラリズムに利用されたというフレイザーの批判に対して、その批判の妥当性はじっさいには各国の「福祉レジーム」によって違うと著者は応答している。

 これらの点は本書の主要な部分をなしている。この著者の評価には、二面性があるように思う。ある意味では、当然ながら福祉をはじめとする諸制度のあり方は国によって違うのであり、そのレベルでの分析検証がされて初めてフレイザーの批判はより立体化するだろう。社会科学は諸方面からその作業を行う必要がある。だが同時に、フレイザーの批判はそのようなレベルにのみとどまるものではないように思う。国によってネオリベラリズムの影響の度合いが異なり、同時にそこでのフェミニズムの関連性も異なるとはいえ、それ以前にネオリベラリズムは世界レベルで影響力をもってしまったのであり、全く影響を受けなかった国や地域はないだろう。さらにいえばネオリベラリズムは単に福祉や社会政策等のハードな制度にのみ影響を及ぼしたのではない。文化や芸術、個々人の意識のあり方にも影響を与えている。それらは単に国別のいわゆる実証的な調査分析だけでは見えてこないものがある。そのように大規模な影響力を持ったネオリベラリズムに関して、フェミニズムがどのような関連性を持ったのかについてフレイザーは挑戦的に、鮮烈な問題提起を行った。わたし自身は、著者の言う通り、その関係性は簡単な「共犯関係」と言えるものではないと考えるが、フェミニズムを広義に捉える時には、第二波フェミニズムのある面が、ネオリベラリズムの論理とある種の親和性をもち、強靭な抵抗網であったり別種のオルタナティブを創造する方向性は弱かったのではないかという内省は有益なのではないかと思う。

 とはいうものの、どちらにしても著者の指摘するように、この問題に解を出すためにはより大規模で長期にわたる研究と対話が必要である。フレイザーの批判を日本の歴史や文脈で検討する場を開いてくれたことに深い感謝を表して一旦閉じたい。わたし自身も今後も様々な機会を借りてこの論争を続けていきたい。

有斐閣 書斎の窓
2023年7月号(No.688) 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

有斐閣

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