「勘弁してくれ」同時代の作家が逆恨みしたくなる凄い本 資本主義社会の静かで冷たい現実を描いた小説『黄色い家』

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黄色い家

『黄色い家』

著者
川上未映子 [著]
出版社
中央公論新社
ジャンル
文学/日本文学、小説・物語
ISBN
9784120056284
発売日
2023/02/20
価格
2,090円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

金は死よりつめたい

[レビュアー] 王谷晶(作家)

『乳と卵』『ヘヴン』『夏物語』などを発表し、海外での評価も高い作家・川上未映子が初めて挑んだクライム・サスペンス小説『黄色い家』(中央公論新社)が刊行した。

 人はなぜ、金に狂い、罪を犯すのか……貧しい家庭に生まれた少女が、“お金”という現実に翻弄される人生を描いた本作の読みどころとは?

 世界中から翻訳のオファーが殺到する本作について、「過去の『少女サバイバルもの』と一線を画す」と評価した作家の王谷晶さんの書評を紹介する。

 ***

 ごくたまに、読んでいて「勘弁してくれ」と思ってしまう本に出くわす。こんなもの同時代に生きてる同世代の作家に書かれたらたまんねえよ、こっちの立つ瀬がない。そういうおこがましい逆恨みみたいな気持ちがつい漏れ出てきてしまうような本。『黄色い家』はまさにそういう小説だった。勘弁してくれ。別になんかで競うつもりとかはマジでぜんぜんない(しそもそも同じ土俵にも上がれない)んですが、この本が出た年に小説発表するの、イヤだな~! しみじみと! 比べられたくねえ~。とにかくそれくらい凄い本だと思う。

 お惣菜屋さんで働き生活している四十代の女性・花が、ネットで偶然目にしたある事件の記事によって、二十年以上前の記憶を呼び起こされる形で物語は始まる。コロナ禍の現代で花が思い出すのは、九〇年代後半から二〇〇〇年代前半までの怒濤のような記憶。その記憶の太い軸になっているのが、お金だ。

 常々、世の中の人間は「金にちゃんとしているやつ」「金にだらしないやつ」に二分できると思っていて、自分は当然後者である。金回りのことをちゃんとしている人は、まずいつにいくら入ってどれくらい出ていくのかをしっかり把握している。そんなの社会人なら当たり前だろと思われるかもしれないが、だらしないやつはここのところが実にいいかげんだ。知らないうちに記憶にない金が財布に入ってたりするし、気がつくと口座に二千円しか残ってなかったりする。そして銭金の恐ろしいところは、ちゃんとしている人がスムーズに幸せになったりお金持ちになれるかというと、必ずしもそうではないところだ。

 私たちは否応なしに、生まれて即座に資本主義社会に放り込まれて生きている。大半は貧乏人として生まれ貧乏人として死んでいくが、貧乏にもグラデーションがある。一億総中流のキャッチコピーも今や遠し、ちょっと貧乏~ドチャクソ貧乏が日本の庶民のコアゾーンになってしまって久しい。これはバブルは弾けたがまだその残り香のような勢いがあった時代から、現代のペンペン草も枯れそうな不景気までを駆け抜けた一人の少女の話だが、この貧乏のグラデーション、さまざまな貧乏が色鮮やかに描かれているのが出色だ。

 おんぼろの文化住宅でスナックのホステスとして働く母と二人で暮らす花は、ある日母の友人である黄美子という女性と出会う。実母にほとんどネグレクトされていた花は、不思議な魅力のある黄美子に束の間生活の面倒を見てもらい、その存在に惹きつけられていく。掴みどころのない黄美子はある日突然花の前から姿を消してしまうが、高校生になり再会した日から、花のお金と“家”にまつわる人生が動きだす。

 花は「ちゃんとしている」人間だ。気はいいがちゃらんぽらんであまり真面目に生活のことを考えていない母の元で、生きていくのに必要なお金のことを必死に考えて成長した。学校そっちのけで死にものぐるいでバイトをし、自分は働いてお金を稼ぐことに喜びを感じる人間だと思い、この世界がお金で回っていることを、座学ではなく肌身に感じて成長していく。「ちゃんとしている」花の周囲には「ちゃんとしてない」人間がいて、その計画性のない甘っちょろい考えに花は時に苛立つが、お金のことを考えるのを止めることはできない。花があくまで、真面目なだけで何か才気走ったり他人を出し抜こうというタイプの人間ではないのが、余計に辛い。お金の前線で戦わなければいけないのに悪どいところがないせいで、花は余計に苦しむことになる。

 幾度も幾度も、お金は花の小さな両手に束の間溜まったかと思えば、こぼれ落ちていってしまう。どんなに思慮深くても、努力家でも、若い女ひとりでこの資本主義社会を泳いでいくのは並大抵のことではない。知識と経験の足りない花に、お金の魑魅魍魎は容赦なく襲いかかる。ただ普通の暮らしをしたいだけなのに、転がり落ちるように犯罪にまで手を染めていくことになる花の姿は、決してただの絵空事ではない。今現在でも、お金に困って闇バイトに手を出しのっぴきならない状況に追い込まれる若者たちが連日報道されている。彼らとて求めていたのは法外な大金やゴージャスな生活ではなく、ただ普通に生きていけるだけの金だったのだろう。

 どうやったら普通になれるのか。花のその叫びが心を深くえぐった。自分も高校をギリギリで卒業して以来、正規雇用の職に就けたことが一度もないまま四十代に突入してしまった人間だ。その途中で、何度も普通の人間になりたいと願い、もがいてきた。毎月決まった額のお金が入り、福利厚生ってやつがあるような、そういう安定した、何か寄りかかるもののある生活は、どうやったら手に入るのか。黄美子の友人である在日韓国人の映水の半生は、この国の「普通」がどれだけ狭き門で排他的なのかを端的に語っている。普通になれない人間たちが手を取り合い身を寄せ合って暮らすつましい美しさが描かれるが、しかしそれもお金という圧倒的な現実の前では塵のようにはかないものになってしまう。

 極限状態に生きる少女が大人になるまでのサバイバルを描いた作品は多い。近年も一穂ミチ『光のとこにいてね』(文藝春秋)などが印象的だったが、同作も『黄色い家』も過去の「少女サバイバルもの」と一線を画すのは、その人生に対する扱いとまなざしの丁寧さ、繊細さだ。偏見かもしれないけれど、凡庸な男性作家が同じ題材を扱ったら、どこかで「盛り上げどころ」として主人公かまたはその近しい女性が性暴力の被害に遭うシーンをこれみよがしに入れていただろうなと思う。それこそが女にとっての最大の痛みであり読者を“納得”させられる展開だから、みたいな感じで(ケッ)。実際、今までそういう話を腐るほど読んできた。

 だが、『黄色い家』で描かれる恐怖はそれではない。金だ。マネーだ。この社会を人の身体にたとえるならば血液となるもの。花は生きていくため、それも黄美子と生きていくために、その生き血を啜り、啜られ、全身血まみれになって黄色い家を守り抜こうとする。触れたら手が切れるようなハードボイルドだ。そしてハードボイルドの主人公は、例外なく己の優しさのためにつまずくことになる。そのつまずきの果てにあるものを見たとき、私も静かに目を閉じたくなった。

河出書房新社 文藝
2023年夏季号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

河出書房新社

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