オリンピックより遅い刊行ペースが魅力 作家・梶よう子の「摺師安次郎人情暦」シリーズの真価

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こぼれ桜 摺師安次郎人情暦

『こぼれ桜 摺師安次郎人情暦』

著者
梶よう子 [著]
出版社
角川春樹事務所
ISBN
9784758414456
発売日
2023/08/02
価格
1,760円(税込)

梶よう子の世界 刊行記念解説

[レビュアー] 大矢博子(書評家)

 阿部サダヲと優香の出演で、2024年3月後半に放送を予定しているドラマ「広重ぶるう」(BSプレミアム4K)の原作者・梶よう子。

 フリーライターを経て、2008年に松本清張賞を受賞し、『一朝の夢』で作家デビュー後、『ヨイ豊』や『北斎まんだら』『空を駆ける』『我、鉄路を拓かん』など時代物の作品を刊行している小説家だ。

 その梶が手掛けるなかに「摺師安次郎人情暦」シリーズがある。最新作の『こぼれ桜 摺師安次郎人情暦』で3作目となる本シリーズの魅力とは?

 書評家の大矢博子さんが読みどころを綴った書評を紹介する。

 ***

 待ちに待った、摺師安次郎シリーズの第三弾である。

 第一作『いろあわせ』が出たのは二〇一〇年。第二作『父子ゆえ』が二〇一八年。そして本作『こぼれ桜』は二〇二三年と、お世辞にもハイペースとは言えない。続きを心待ちにしていたファンとしては体育座りをして虚空を見つめながら「もしかしてもう忘れられちゃったんですかねえ」と拗ねたくなるが、いやいや、この間隔こそがこのシリーズを面白くしているのである。

 どういうことか。それは梶よう子のキャリアと成長がシリーズの進化に大きくかかわっているからだ。

 第一作『いろあわせ』は、著者にとってデビュー三作目の長編だった。軟弱な同心が幕末の大波に巻き込まれるデビュー作『一朝の夢』、文政年間に南部藩士が津軽藩主を襲撃した相馬大作事件に材をとった二作目『みちのく忠臣蔵』と、いずれも実在の事件を扱ってきた。そこへきて『いろあわせ』である。

 主人公は腕のいい摺師の安次郎。浮世絵などの版木に色を載せて摺る、いわば出版物の最後の工程を担う職人だ。腕のいい摺師である安次郎は、工房「摺長」で働いている。一粒種の信太が生まれてまもなく妻が亡くなったため、信太を舅姑に預けての一人暮らし。彼の弟分である直助が「大ぇ変だ!」と工房にトラブルを持ち込んでくる─というのがおなじみのパターンだ。摺師という職人を主人公に据え、摺りの技法を人間関係(主として親子関係)に見立てて描く人情小説であり職人小説だった。

 こういうのも書くんだ、とその時は思った。しかしその後、梶よう子は絵師を中心とした職人小説で頭角を現す。絵の上手い医師を主人公にした『迷子石』を発表したあと、四代目歌川豊国を描いた『ヨイ豊』で直木賞候補になったのはご存知の通り。その後も多くの絵師小説を手がけ、高い評価を得ている。

「ランティエ」二〇一八年三月号のインタビューによれば、『いろあわせ』を書くに当たって摺師の取材をするうちに絵師の視点に興味を持ったのだという。ここから始まったのだ。

 安次郎が出会ったさまざまな親子関係を捕物帳風味で描いた第一作から転じて、第二作『父子ゆえ』では安次郎自身の問題が色濃く綴られた。摺師という職業にどう向き合うのか、舅姑に預けたままの息子をどうするのか、捨てたはずの過去にどう向き合うのか。摺師という職業の興味深さはそのままに、ぐっと「安次郎」という人物が立ち上がったのである。

 この二作目が出るまでの著者は、他の作品でも「人生」に向き合ってきた。いちいち挙げる紙幅はないので詳細は略すが、前述の絵師だけではなく、歴史もの、武家もの、市井もののいずれに於いても「たまたまその環境に生まれたがゆえに出会う苦難」をさまざまな角度から描いていたのである。

 そして『こぼれ桜』である。

 前作から登場した彫師の伊之助(この名前は藤沢周平作品へのオマージュだろう)が冤罪でつかまる「縮緬の端切れ」、信太が拐かされたと大騒ぎになる「張り合い」など五篇が収められており、それぞれ単独の物語としても読ませるが、通して読むと浮かび上がるのは「つながり」と「重なり」だ。

 一枚の浮世絵が世に出るまで、絵師がいて彫師がいて摺師がいる。注文を出して販売する版元がいる。さらには版木を商う店もある。そういった多くの工程を経て絵が世に出るのだということが、どの物語でもつぶさに描かれる。それだけではない。舅姑、長屋の住人、昔馴染みなど、人は人との縁がつながっていくからこそ生きていけるのだという力強いメッセージがこの物語には込められている。

 また、伊之助をはじめ登場人物それぞれに過去があることも本書では綴られる。誰もが今だけを生きているのではない。過去があり、その上に今がある。まだ幼い信太ですら、ケガという過去の上に今がある。武家を飛び出して長屋暮らしをする友恵、悔恨を胸に抱き続けた安次郎の叔父。誰しもが過去の上に新たな人生を重ねていく様子が、本書では慈しみを持って描かれる。

 思えば『いろあわせ』の第一話「かけあわせ」で、色の上に別の色を重ね摺りすることで新しい色を出すという手法が紹介されていたのだ。それがこのシリーズを貫くテーマだったのだと、今更ながらに感じ入った。

 叔父に対してずっとわだかまりを持っていた安次郎が、第四話「黒い墨」でその叔父と対面する場面が本書の白眉だ。そこで彼が何を言うか、どうかじっくり味わっていただきたい。過去の上に今があるというのは、こういうことなのだと強く訴えかけてくる。

『父子ゆえ』以降の梶よう子は、市井小説と並行して菱川師宣や歌川広重といった絵師もの、江戸の葬儀屋、実在した幕末の土木業者や明治の女性翻訳家などの小説を手がけている。いずれも自らの信じる道のために何度も立ち上がったプロフェッショナルの物語だ。過去の上に今の自分を積み上げた人々の物語と言っていい。

 梶よう子のキャリアがシリーズの進化にかかわっていると書いた理由がおわかりいただけたと思う。このシリーズは作家・梶よう子の里程標なのである。

 ぜひ第一作から本書まで、順にお読みいただきたい。親子の話、自身の話ときて、この第三作でそれが一気に──横のつながりと縦の重なりの両面に於いて大きく広がっているのが実感できるはずだ。

 本来なら『こぼれ桜』の個別の収録作について詳しく紹介すべきなのかもしれないが、規定の紙幅が尽きたので、それは本編でお確かめいただきたい。今回も摺師の職人技と矜持がたっぷり堪能できる。人生を重ねて新たな色を生み出した彼らが、今後どうなるのか。今から第四作が楽しみでならない。

角川春樹事務所 ランティエ
2023年9月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

角川春樹事務所

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