小説家・鳴神響一が注目する「目からウロコ」な戦国の考察本

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戦国大変 - 決断を迫られた武将たち -

『戦国大変 - 決断を迫られた武将たち -』

著者
乃至 政彦 [著]
出版社
JBpress
ジャンル
歴史・地理/日本歴史
ISBN
9784847073199
発売日
2023/06/23
価格
1,870円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

一次史料に書かれた内容は常に真実か?「目からウロコ」な戦国の考察本

[レビュアー] 鳴神響一(作家)

『鬼船の城塞』などの歴史時代小説や、『脳科学捜査官 真田夏希』、『警察庁ノマド調査官 朝倉真冬』などの警察小説シリーズで知られる小説家・鳴神響一さん。今回は、乃至政彦氏の新刊『戦国大変 決断を迫られた武将たち』について、一次史料と、歴史上の人物の主観を探る分析を主に、「目からウロコ」な本書の読みどころを教えていただいた。(JBpress)

一次史料に対する著者の慎重な分析視点

 本書を手にしてページをめくるうちに深く引き込まれ、時の過ぎゆくのを忘れた。いままで事実だと信じていた多くの歴史的場面がことごとく塗り替えられていったのである。目からうろこの大変な時間が続いた。

 本書は1520年の【水原弥々松×長尾為景】から1600年の【本多忠勝×石田三成】まで、時代順に20稿のトピックに分かれている。著者はそれぞれの項目に関して多くの文献を緻密に検証しながら通説に対する疑問を呈し続けている。さらに楽しい三項目の番外編が加えられている。そんな構成を持つ本書の魅力について述べていきたい。

 まず惹かれるのが、一次史料に記された内容に対する著者の慎重な分析視点である。

 ご存じの方には恐縮だが、一次史料とは『文献史料を例にとると、その目安となるものは、その史料を「いつ」「どこで」「だれが」書いたか、の三要素であり「そのとき」「その場で」「その人が」の三要素を充たしたものを「一次史料」と呼び、そうでないものを「二次史料」と呼んでいる。一次史料の代表的なものには日記、書翰、公文書がある。』(国立国会図書館ウェブサイト)

 歴史研究において、一次史料に既述された内容について信頼度が高いものとして扱うのは当然である。後世に書かれた、たとえば軍記物などの二次史料に書かれた内容は伝聞を中心とする。聞き間違いも記憶違いも多々あり、場合によってはねつ造も散見されるからである。

 それでは、一次史料に書かれた内容は常に真実なのか。この疑問に真正面から答えてくれるのが第16稿の1585【伊達政宗×小手森城】である。

 伊達政宗は天正一三年(1585)に、大内定綱の小手盛城を攻めた。当主の定綱が逃げ出した後に、政宗が居残った者を女子供まで惨殺したという有名な逸話がある。政宗の苛烈な一面を伝えるこの話は、政宗自身の書状に記されているのである。まさに一級の一次史料に違いない。

 著名なものは、伯父であり隣国当主である最上義光に落城当日に政宗が送った書状である。政宗は「大内定綱に属する者を五〇〇人以上討ち取りました。そのほか女子供だけでなく、犬までも撫で切りにしました。合計一一〇〇人以上を斬らせました」(P.235)と記している。この書状により、政宗の「小手盛城の撫で切り」は世に真実として流布した。従来の通説も小手盛城の惨殺を史実として認めてきた。

 ところが、小手盛城攻略戦について記した政宗自身の書状はほかに二通が現存する。二通目は翌日、家臣の後藤信康に送った書状、さらに三通目は翌月、僧侶の虎哉に送ったものである。ところがこの三通には撫で切りにした人数をはじめいくつもの食い違いがある。

 著者はこの食い違いに着目する。なぜそうした内容の違いが生まれたのか。後藤信康あての書状では殺戮人数は二〇〇人とされていて奉公人、まして女子供は入っていない。虎哉への書状は八〇〇人を殺したとしている。ただの誤りではないのだ。

 著者は政宗の主観に入り込んでその謎を解こうとする。詳細な論考の末、著者は「小手盛城の撫で切り」の逸話が、真実から遠いものである結論を導き出していく。この論旨の進め方は脱帽のおもしろさである。どんな結果が明らかになるかをぜひ楽しみにお読み頂きたい。

歴史上の人物の主観を探り分析に活かす手法

 現代社会においても政府など為政者の言説が真実と遠いことは珍しくもなんともないだろう。一次史料を深く読み込み、ときに二次史料を参照にしつつ、最後は歴史上の人物の主観に踏み込んで真実を導き出すこの手法は本書の各所で見られる。歴史上の人物の主観を探り当てて分析に活かす手法には最大の敬意を払いたい。どうかページを繰りながら探してみてほしい。

 さて、本書には驚かされる著者の分析視点は、こればかりではない。第2稿の1550【大内義隆×ザビエル×フロイス】と第3稿の1551【大内義隆×大寧寺の変】をお読み頂きたい。歴史上の人物の評価がいかに創り出されてゆくかがよくわかる。

 周防守護大名で応仁の乱では西軍主力となった大内氏は、西国一の大名でもあった。義隆は16代目の当主であって従二位の位階まで上った。義隆の治世は安定し、本拠地の山口は大いに栄えた。著者は義隆を「日本無双の大名だった」と評している。

 ところが、四五歳のときに家臣である周防守護代の陶隆房に攻められた義隆は大寧寺の変で敗死し、名族大内氏は滅亡した。さらにルイス・フロイスが書き残した『日本史』の記述から、義隆は男色(少年愛)にうつつを抜かしていたと信じられている。『日本史』は二次史料だが、あまりにも有名だ。このため、義隆は「男色の文弱な愚将」と信じられている。

 著者は一次史料であるフランシスコ・ザビエルの書簡とフロイスの記述を詳細に比較し、義隆の男色説を明確に否定する。ちなみにフロイスの上役であるヴァリニャーノは彼を誇張癖のある記録者と指摘している。また、著者によれば、後の朝倉宗滴や山本勘助の義隆評を通じてフロイスが『日本史』を書いた時代はすでに世の中が殺伐としてきていて、義隆批判が横行していたと語るのである。

 著者は義隆の先進性を高く評価する。たとえば、少弐氏を降伏させ支配下に置いた筑前一国で義隆は関所を撤廃した。当時の「関所は治安維持のために設けるが、通行料をとるため物流を滞らせる」(P.47)存在だったのである。織田信長も支配地の関所を撤廃しているが、義隆はこれに先立つこと三〇年以前に実施しているのだ。また、ザビエルを歓迎して、誰よりも早く宣教師の布教を認めさせている。このような先進性を認めても、なおかつ義隆を文弱な大名であるとする言説は絶えない。

 だが、著者は義隆が謀反人の陶隆房に生命乞いをするようなことなく「討つ人も討たるる人も諸共に 如露亦如電応作如是観」という辞世を残して潔く腹を切ったことをして文弱との評価を否定している。たしかに死に臨んで「露のようにはかなく、電光のように一瞬の間に消え去るの意で、すべて因縁によって生じたものは実体がなく空であることをたとえた」(日本語大辞典)との言葉を遺した義隆の心根は、清澄とも言うべき高雅さを感ずる。

 次に、第3稿の次の一節を読んで、ノックアウトされた。「歴史のIFを考えるのはタブーでも何でもない。むしろIFを通さず結果と実績だけでものを見る方が、偏った英雄史観を生み出す土壌となる危険性があるのではないだろうか」(P.58)と著者は語るのである。歴史のIFは小説などの創作のなかでも取り扱いが難しい。史実に反した叙述を選べば、その作品は歴史小説のカテゴリーから放逐されて伝記物とされてしまうのである。

 閑話休題。著者は義隆の力量をいくつもの観点から評価し「もしも義隆が死ななければ、率兵上洛を実現して足利幕府を再興し、戦国時代をもう少し穏やかに終わらせることができたかもしれない」(P.58)と述べる。このIFは説得力のある理論の積み重ねによって導かれている。大内義隆は足利期の道徳観からはあり得ぬ陶隆房の謀反により悲劇の最期を迎えた。そのために、死後に評価が一変し、酷評の憂き目に遭ったと著者は断ずるのである。義隆の死が足利期から戦国期への時代の転換期にあって、世の人々が「ああなってはいけない」という気持ちを抱いたことが酷評に拍車を掛けたと評する。

 そもそも、世人は敗者に対して適切な評価を与えない。判官贔屓のたとえのように能力等を過大に評価するか、義隆のように酷評されるのが常である。本書では義隆のほかにも今川義元(5稿)、足利義昭(7稿)、武田勝頼(13稿)など、無能のそしりを受け続ける武将たちについても詳細に分析を加えている。

 織田信長の印判「天下布武」の本当の意味は?(6稿)、戦国時代は略奪行為で軍需物資を調達していたのか?(9稿)、本能寺の変における惟任光秀の謀反意図は?(15稿)、関ヶ原に臨む上杉景勝の心情は?(18稿)など、いままでの歴史に対する常識が覆ること請け合いである。ゆっくり紹介したいところだが、紙幅が尽きた。

JBpress
2023年9月8日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

JBpress

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