『君と私』
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佐々を殺してしまおう
[レビュアー] 北村薫(作家)
書評子4人がテーマに沿った名著を紹介
今回のテーマは「嫉妬」です
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志賀直哉の「城の崎にて」は、国語の教科書に載ることの多い短篇です。「山の手線の電車に跳ね飛ばされて怪我をした」と始まります。この事故の様子は、現場にいた里見弴の「善心悪心」に、くわしく書かれていますが、そちらまで読んでいる人は、今、少ないでしょう。
里見は、志賀の年下の友人でした。交際は長く深いものでした。しかし、途中に、何年にもおよぶ絶交期間があります。この「善心悪心」も、絶縁のきっかけの一つといえます。
作中には、こんなエピソードが語られています。――オーガスト・ジョンという画家は「恐しいような一種の強い性格をもった男だった」。一方、オスボルンという画家は「立派に己自身の才能をもっていながら、その作画は、どう悶掻いてもジョンの足跡をあとからあとからと追って行くようになった」。結局、オスボルンは自殺する。
これを知った主人公は、「佐々を殺してしまおうという考を、どうしてもあたまから追い出すことが出来なかった」と書かれています。佐々とは、志賀直哉のことです。
同じ道を歩む巨大な存在が身近にいることは表現者にとって耐え難いことでしょう。これもまた深刻な嫉妬といえます。
里見の「善心悪心」が、中公文庫から出た『君と私 志賀直哉をめぐる作品集』に、その周辺の諸作と共に収録され、手に取りやすくなったのは、うれしいことです。