『ソクラテスの弁明』
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もう簡単にはこんな人物を見出すことはないでしょうから
[レビュアー] 野崎歓(仏文学者・東京大学教授)
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今回のテーマは「裁判」です
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ソクラテスは対話の実践を重んじて文字での記録をよしとせず、著作を残さなかった。プラトンがその点で師に背き、本を書いてくれたおかげで、後世はソクラテスに学ぶことができる。
『ソクラテスの弁明』は、2400年前の裁判の核心を鮮やかに伝える一冊だ。納富信留の新訳は被告人ソクラテスのなまの声を聴くような感動を与えてくれる。
かつて神託が、ソクラテスほど知恵のある者はいないと告げた。本人はそんなはずはないと思い、神託の過ちを確かめるため世の知者たちと会って話してみたが、なるほど彼らは本物の知者ではなかった。論破を繰り返すうち、弟子がどんどん増え、また敵の怒りも増し、ついには裁判にかけられたのだ。だからといって、死刑にするほどの重罪なのか。当時アテナイでは判決は即決で死刑もすぐに執行されたというから驚く。
哲人の弁明にはユーモアさえにじみ、余裕綽々。訴えの内容を徹底的に吟味し、見事に反(はん)駁(ばく)する。敗訴ののちには死などまったく恐れるに足りないことを諄々と説くのだからあっぱれだ。
自分が弁明するのはみなさんのためだ。「もし私を死刑にしたら、もう簡単にはこんな人物を見出すことはないでしょうから」と被告人は明言する。ここで素朴な疑問がわく。約四世紀後にやはりずさんな裁判の末、磔刑に処されたキリストはこの本を読んでいたのか。アテナイの哲学者の最期をめぐる挿話がキリストの脳裏をよぎることはあったのだろうか?