モアメド・ムブガル・サール『人類の深奥に秘められた記憶』を鴻巣友季子さんが読む 人類や性別、時空を超えて錯綜する、多声の織りなす物語

レビュー

  • シェア
  • ポスト
  • ブックマーク

人類の深奥に秘められた記憶

『人類の深奥に秘められた記憶』

著者
モアメド・ムブガル・サール [著]/野崎 歓 [訳]
出版社
集英社
ジャンル
文学/外国文学小説
ISBN
9784087735253
発売日
2023/10/26
価格
3,630円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

モアメド・ムブガル・サール『人類の深奥に秘められた記憶』を鴻巣友季子さんが読む 人類や性別、時空を超えて錯綜する、多声の織りなす物語

[レビュアー] 鴻巣友季子(翻訳家、エッセイスト)

人種や性別、時空を超えて錯綜する、多声の織りなす物語

 二〇二一年のゴンクール賞受賞作『人類の深奥に秘められた記憶』が日本語で全姿を現わした。予想を上回る圧倒的傑作である。まだ九月とはいえ、間違いなく本年の翻訳文学ベストの一冊だ。
 T・C・エリマンというセネガル出身の幻の作家を追い求めることで、書くという行為と人間の深奥にある本性を探求する物語だ。エリマンは第一次大戦中の一九一五年にセネガルの村に生まれ、パリの大学に学び、『人でなしの迷宮』という「血にまみれた一人の王」の暴虐きわまる所業を綴った小説を二十三歳で発表した伝説の作家。「黒いランボー」の異名を与えられ、フランス文学界の話題をさらったものの、セネガルのある民族の神話、西洋古典、現代文学に至るまで数多(あまた)のテクストを「剽窃(ひようせつ)」していたと指弾され、文学シーンから姿を消した。これらの批判にはそれ自体でたらめなものもあったが、エリマンはなぜか沈黙を貫く。
 物語の背景には、第一次大戦、第二次大戦をはじめとする数々の戦争がある。アルゼンチンではクーデターにより軍事政権が樹立され、二十一世紀にはセネガルでデモと蜂起の時代がつづく。ここに本作の語り手も巻き込まれていく。
 エリマンが注目されたのは、剽窃という事件性もさることながら、アフリカ人であったことも大きい。ここで、本作がモデルとしたフランス文学界の出来事を紹介しておいたほうがいいだろう。訳者解説に詳しく記されているが、巻頭には「ヤンボ・ウオロゲムのために」という献辞が掲げられている。ウオロゲムはマリ(当時はフランス領スーダン)に生まれ、デビュー小説『暴力の義務』(邦訳は岡谷公二)が絶賛されて、ルノードー賞まで受賞した実在の作家である。
『暴力の義務』はアフリカの架空国家「ナケム」を舞台に、サイフ(王)の「暴力の哲学」の残忍な実践を余すところなく描いた衝撃作だ。アフリカ人による驚異の文学と称揚されたのち、グレアム・グリーン『ここは戦場だ』や、アンドレ・シュヴァルツ=バルト『最後の正しい人』などから盗用していると批判され、本は回収されて、作者も文学界から姿を消したという。『人類の深奥に秘められた記憶』に登場するエリマンと『人でなしの迷宮』も同様の道を辿るのだ。
 しかしその経緯を語り伝える本作の手法はじつに複雑だ。案内役はジェガーヌ・ラチール・ファイというセネガル出身の若い作家。パリの大学を卒業したのち、アルジェリアの革命に参加するフォトジャーナリストの恋人に去られ、『空虚の解剖』なる小説を発表するが、七十九部しか売れず、それでもある批評家が「ル・モンド」に書評を寄せたことで、期待のアフリカ人作家となりおおせる。
 彼が高校生の時から追い求めていたのが、T・C・エリマンだった。その幻の書を探しあぐねているうちに、六十近いアナーキーな大作家シガ・Dと知り合う。彼女を尊敬しているというわりにそのバストに欲情してしまうジェガーヌ。重要なのはこの女性作家が『人でなしの迷宮』を一冊所有しており、本作の主な語り手の座を乗っ取る仕儀になることだ。彼女の登場でこの小説はどんどん語りの入れ子構造を深めていく。ナラティヴが複層し輻輳(ふくそう)していくテクストの迷宮をぜひ堪能いただきたい。
 若いジェガーヌは語り手としてはある意味で“やわい”。しかしそれゆえに、とくに「第二の書」以降、語りの座を様々な話者へと譲り渡し抱擁する力をもつ。かくして、彼をいちばん大枠の語り手として、その中にシガ・Dによる大量の打ち明け話があり、さらにその中に彼女と年の離れた父ウセイヌの臨終の告白、シガ・Dがブリジッド・ボレームという女性評論家から聞いたエリマン失踪にまつわる調査内容、ボレームの著書の引用、さらにボレームによるエリマンの出版人の一人テレーズ・ヤコブへのインタビュー、シガ・Dを支援していたハイチの女性詩人による回想などが錯綜(さくそう)することになる。ある人物の談話の只中(ただなか)に、それを語り伝えている第二の話者の声や、それを聴いているジェガーヌの声までが折々に侵入し、読者は多声の織りなす物語のいかに「深奥」に自分がいるか気づいてはっとさせられるだろう。
 さらに、章の間に挟まる「第〇の伝記素」という、語りの位相の違う“幕間(まくあい)”がスリリングで、ここでは死者をふくめ物語の枠外のだれかが語っているようだ。こうしてエリマンの著書は次々と人にとり憑く。一体この作家は表舞台から去ってなにをしていたのか? 
 エリマンは評論家たちの「読み」の脆弱(ぜいじやく)さに憤り、その罪に絶望していた。作者が本当にアフリカ人であるか否かや、剽窃というスキャンダラスな面ばかりに囚われ、作品の真の意図を見抜こうとしなかったからだ。作中でボルヘスの『「ドン・キホーテ」の著者、ピエール・メナール』が言及されるのは自然なことだろう。あらゆる文字の組み合わせで表せる文章は理論的には有限であり、すべての本はすでに書かれているのかもしれない。その文字の大海から比類ない文字列=「物語」が発見され、『人でなしの迷宮』および『人類の深奥に秘められた記憶』と名づけられた。それは偶然に見えて一つの強靭(きようじん)な運命だったのだ。

鴻巣友季子
こうのす・ゆきこ●翻訳家、文芸評論家

青春と読書
2023年11月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

集英社

  • シェア
  • ポスト
  • ブックマーク