『嫉妬と階級の『源氏物語』』
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紫式部の作家論
[レビュアー] 山崎ナオコーラ(小説家・エッセイスト)
山崎ナオコーラ・評「紫式部の作家論」
『源氏物語』は、階級の中で生まれる感情が物語の推進力になっているのかもしれない。
大塚ひかりさんの『嫉妬と階級の『源氏物語』』は、ヒロインたちと紫式部が、階級社会の中でどのように感情を動かしたか、そしてそれがどのように物語に作用したかを考察し、新しい読みの地平を拓くエッセイだ。
階級の中で起こる嫉妬、という切り口で『源氏物語』が読まれることは、これまでの読みでは意外と少なかったと思う。
男は劣った女が好きなものだ、女同士はいがみ合うものだ、とジェンダーバイアスのかかった単純な読み方をされがちだった。それから、「階級制度」という現代には存在しないものがあってその感覚は現代人には想像しにくい、と現代人の感覚と切り離されて読まれることも多かった。
なぜ、「ヒロインたちは『階級を作って社会を維持しよう』という社会通念の中で感情を震わせている」という切り口が見えにくかったのか。それは、これまでの多くの読者が、貴族の女性たちを社会人と見なしていなかったからではないだろうか。
現代にも「階級」のようなものはある。私もそうなのだが、おそらくみなさんも、社会でもまれるうちに、上下関係を感じ、嫉妬を湧かせてしまう。
貴族の女性は、労働をせず、相続をするだけだとしても、周囲と関わり、使用人をまとめなければならないわけで、立派な社会人だ。女だろうと男だろうと、社会でもまれていれば、「自分より上にいるように見える人がいる」「なんで自分ばかりこんな扱いを受けるんだ」といったことを思う。そういう嫉妬の感情を、お姫様たちも味わっていた。
しかも、作者の紫式部自身も、階級に対する複雑な思いを抱えていたという。この読みは新しい。そう、紫式部も社会人だったのだ。
大塚さんが書いている「落ちぶれや成り上がりといった階級移動はいつの時代にもあるもので」という文にハッとする読者は多いだろう。
「落ちぶれ」「成り上がり」こそが物語だ。誰もがその物語を知っている。
いわゆる「階級制度」は現代日本社会にはもうない。でも、「落ちぶれ」「成り上がり」は今の世にもあるし、ほとんどの文学がそれを扱っている。
紫式部自身が受領階級という、「落ちぶれ」や「成り上がり」に敏感な階級で生きており、「どうして私がこんな扱いに」「あの人はどうしてあんな扱いに」と嫉妬を感じていた。その感情が筆を動かす力になった。
これまでの読みで、「紫式部は自分自身のことではなく、憧れや夢で執筆意欲を燃やしていた。仕えていた中宮彰子やその周囲の人たちを眺めながら、天上の世界を描いていた」とばかり捉えてしまいがちだったのは、やはり男性主体の読みだったのかもしれない。『源氏物語』は藤原道長が書かせたのだ、女は憧れを描くものだ、という思い込みから、紫式部自身の生活や人生を細かく想像する必要性を感じられなかったのだ。
だが、当たり前のことだが、作家は自分自身に一番振り回される。自分自身の心の底から物語が生まれてくることの方が圧倒的に多い。
紫式部は、自身の先祖は上流階級にいたこと、祖父の代に落ちぶれたこと、自分の結婚、出産、それから夫を亡くしたこと、そして宮仕え、といった際に味わった、自身の階級移動感覚を面白く思ったに違いない。嫉妬などの感情が自分の内から湧いてきたことで、「これを書きたい」「これは書ける」と考えただろう。
彰子や道長は執筆を後押ししてくれた存在ではあったかもしれないが、やはり、紫式部自身が階級移動を味わったからこそ、『源氏物語』は生まれたのだ。
階級移動は結婚でよく起こる。だから結婚の物語はわくわくする。
明石の入道が「娘の結婚による敗者復活」を望むこと、紫の上が「相手が『下位者』の時だけ、嫉妬をあらわにする」こと、そのほか、本書にはいろいろなエピソードが紹介されていて、背筋がゾゾゾッとする。人間って嫌だなあ、という気持ちにもなってくる。しかし、やっぱり、嫉妬は面白い。
大塚さん独特の、容赦ない、直球の言葉運びがあり、それでいてユーモアがそこかしこにあふれていて、怖いなあ、と思いつつ、笑ってしまう。
大塚さんは、『源氏物語』に出会った頃から「数」という言葉が気になっていたという。階級制度がしっかりとあった頃は、人間の数として数えられない人もいる、という恐ろしい人権感覚があったのかもしれない。紫式部自身が宮仕えをし、人に仕える身では人間の数に入れてもらえない、という感覚を味わい、そこに強い思いがあったとしたら、それはとても悲しいけれども、そこから『源氏物語』が生まれたと考えると、すごくしっくりくる。