ささやかな記憶から 吉行淳之介――沢木耕太郎『作家との遭遇 全作家論』試し読み

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『私の文学放浪』は、昭和三十九年の三月から四十年にかけて一年にわたって「東京新聞」に連載された。それは、大正十三年四月生まれの吉行淳之介の、三十九歳から四十歳にかけてということでもある。
 この著作は、吉行淳之介の作品の中でも際立った出来であるように私には思える。短編小説としての「寝台の舟」、長編小説としての『暗室』、非小説としての『私の文学放浪』。吉行淳之介の作品から三作を選び出せと言われたら、躊躇なくそう答えるだろう。
 ここで書かれていることは、題名通り、少年時代からの文学的関心の在り所であり、大学時代から始まった同人誌との関わりであり、安岡章太郎や庄野潤三らとのいわゆる文学的青春の始まりと終わりであり、さらに芥川賞受賞後の職業的作家としての歩みである。
 もちろん、ここでも重要ないくつかのことは省略されている可能性がある。吉行淳之介と対談したことのある者は誰でも経験することだと思うが、話している途中で「これは余分な話だけど」とか、「これはあとでカットしておいてください」などという言葉をはさみながら話すことが少なくない。対談の流れを損なわないために話しておくが、雑誌に載せるつもりはないとあらかじめ断っておくのだ。そして実際、対談相手からすればとても面白いと思われる話が、ゲラの段階で大胆にカットされてしまうことになる。それはいつまでも編集者としての性癖が抜けないからというより、吉行淳之介にとって最も関心のあることが吉行淳之介を編集することであるからなのだろう。『私の文学放浪』においても、そうした意識が働いているところはさまざまに感じられる。だが、書かれている部分において過不足はない。
 ここにはまた、多くの評者からたびたび引用されることになる吉行淳之介の文学観が、極めて平易な言葉で述べられてもいる。

 制作に当っては、まず昂揚が必要だ、と私はおもった。その昂揚を一たん絞め殺して、心の底深く埋葬した上で、原稿用紙に向わなくてはいけない。

 しかし、『私の文学放浪』の中で私に印象的なのは、断片的に吐露されるこうした文学観ではなく、小説家という職業を選んでしまった人物の感受性と生き方のスタイルである。それは私が、この『私の文学放浪』を、文学についての著作というより、文学という世界に身を置いた男の感受性と生き方のスタイルを述べたものであるという受け取り方をしていることとつながっている。
 とりわけその感受性と生き方のスタイルがよく現れていると思えるのは、終わりの少し手前で述べられることになる、宮城まり子との恋愛にまつわるスキャンダルへの対応の仕方である。
 それを単純に言ってしまえば、週刊誌でスキャンダルを暴かれた作家がその出版社に対して執筆拒否をした、というだけのことでしかない。妻子ある作家がミュージカル・スターと恋愛をした。作家がそれを素材として小説を書くと、その小説をベースとして週刊誌がスキャンダラスな記事を書いてしまった。一般的には、自分で種を蒔いた災難なのだから週刊誌にどう書かれようと仕方がない、と決めつけられかねないシチュエーションである。ところが、五枚に満たないほどの短い文章に述べられたその出来事の顚末を続み終えると、「いい気なものだ」と思われても不思議ではない吉行淳之介の、その出処進退の鮮やかさだけが強く印象に残ることになるのだ。
 まず、「週刊新潮」の編集者である旧友が困った顔で訪ねてくる。

 私の作品を下敷にして、M・Mと私との愛情問題についての記事を書くことになったから、取材にきたという。

 吉行淳之介は、あの作品は告白記ではないからと断る。それに対し旧友は、いずれにしても記事は出ていってしまうのだから、誤解のないものにするためにも協力した方がいいと言う。それは友人としての言葉である以上に週刊誌の編集者としての常套的な台詞である。
 もしここで個人のプライバシーという概念を持ち出してきたとしたら、この勝負は吉行淳之介の負けだったろう。いくら自分の小説は事実をそのまま書いたものではないと弁明しようとも、明らかに「種を蒔いた」のは吉行淳之介自身であるからだ。
 しかし、この時、吉行淳之介は次のような論理を展開するのだ。それは「エチケット」に反していないだろうか、と。

 新潮社と私との関係は、深いものではないが浅くもない、とおもっていた。私が迷惑するのがわかっていることを記事にするのは、エチケットに反しはしまいか。それをあえて記事にするということは、新潮社のハカリに私という作家をかけたときの目盛りの具合を示していることである。

 この意見には説得力がある。そこから、苦労して書いていた「小説新潮」の原稿を書くことをやめ、さらにその論理的な帰結として新潮社と全面的に縁を切るというところに発展していく心理的なプロセスはよく理解できる。
 また、この出来事を聞きつけ、一緒に新潮社に対する執筆拒否をしようかという友人たちに対しては、これは個人的な問題なのだから、「軽挙妄動しないでくれ」と道化た口調で断る。
 ここまでの吉行淳之介の対応は見事なものである。妙な概念を振り回したり、衆を頼んだりせず、ひとりの作家として出版社と対峙している。
 だが、その記事は題名を少し変えただけで出ていってしまうことになる。

 訂正した題名は記憶していないが、元のものは「スキャンダルの女たち」というもので、女を主人公としたトラブルを四つ(三つだったかもしれない)集めた特集記事であった。それを見て、私ははじめて怒りを感じた。残りの記事は、すべて犯罪に関係のあるものだったからである。

 バックナンバーで調べてみると、訂正された特集のタイトルは「愛情と名声の間の女」という訳のわからないもので、吉行淳之介に関する記事は「告白的小説と宮城まり子」と題されて冒頭に出てくる。確かに、他の三人の記事は、恐喝、国外逃亡、汚職といった犯罪がらみのもので、なぜこれらをひとつの特集にまとめなければならなかったかはよくわからない。
 そして、その記事を見て初めて怒りを感じたというのは、それまでの冷静な対応を見てきた読者にもっともだと思わせると同時に、あたかもヤクザ映画で主人公が最後に爆発させる憤怒に似たカタルシスを味わわせてくれる。
 そして、これが読み物としても優れているのは、その冷静な経過報告の最後に、ユーモラスにして切実なこの一文が置かれているからだ。

 私自身は、終始かなり平静を保っていたつもりでいたのだが、気が付いてみると、五十円硬貨大の神経性のハゲができていた。

 ここには、描写より、実は事を叙べることに長けていた作家としての本領がいかんなく発揮されている。

新潮社
2018年12月5日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

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1896年(明治29年)創立。『斜陽』(太宰治)や『金閣寺』(三島由紀夫)、『さくらえび』(さくらももこ)、『1Q84』(村上春樹)、近年では『大家さんと僕』(矢部太郎)などのベストセラー作品を刊行している総合出版社。「新潮文庫の100冊」でお馴染みの新潮文庫や新潮新書、新潮クレスト・ブックス、とんぼの本などを刊行しているほか、「新潮」「芸術新潮」「週刊新潮」「ENGINE」「nicola」「月刊コミックバンチ」などの雑誌も手掛けている。

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