2020年11月に亡くなったマンガ家、矢口高雄さんの評伝『釣りキチ三平の夢 矢口高雄外伝』(世界文化社)の著者、藤澤志穂子さんによる追悼特別寄稿、2回目は矢口氏が人生の後半に心血を注いだ「横手市増田まんが美術館」にまつわるエピソードである。地元の名士ということもあり、矢口さんの名前を冠するというプランもあったが、矢口氏は頑として拒否したという。
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「ゴルゴ13」や「YAWARA!」、そして「釣りキチ三平」など、往年のヒットマンガの原画が収蔵されている施設が、秋田県の片田舎にあります。「横手市増田まんが美術館」で、2020年11月にすい臓がんで死去した、「釣りキチ三平」作者のマンガ家、矢口高雄さんが名誉館長でした。現在40万点以上の原画を収蔵、現物の保存とデジタルデータ化、展示など利活用に取り組む日本唯一の施設です。矢口さんが故郷の旧増田町(現横手市)に設立を働きかけて1995年に設立、2019年に大幅リニューアルされました。当初は「矢口高雄記念館」とすることも検討されましたが、矢口さんは首を縦に振りませんでした。なぜだったのでしょう。
国内には、手塚治虫記念館(兵庫県宝塚市)、水木しげる記念館(鳥取県境港市)、石ノ森章太郎ふるさと記念館(宮城県登米市)など、マンガ家の名を冠した記念館が、生まれ故郷などに設立される例が少なくありません。設立時にそうしなかった理由を、矢口さんは「僕が死んだら誰も来てくれなくなるから」と笑いながら話していました。
ただ、本当の理由はもっと深いところにありました。蔑まれていたマンガの地位を、立派な文化として、美術館に堂々と入れられる存在に引き上げたかったのです。
その心境を矢口さんはこう語ってくださいました。
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- 釣りキチ三平の夢 矢口高雄外伝
- 価格:1,760円(税込)
「中学生の頃、マンガ雑誌を学校で回し読みしていたら、先生に見つかって取り上げられて廊下に立たされたことがある。先生は『マンガは教育上、百害あって一利なし。害虫である』と怒った。幸い僕は大人になってヒット作を出せた。だから『害虫』と言われる状況を変えようと、公的な存在である美術館にマンガを入れて、作家の息遣いが分かる原画を見てもらいたかった」(『釣りキチ三平の夢 矢口高雄外伝』。以下、引用はすべて同書より)
その原画保存により力を入れることになったきっかけは、2011年の東日本大震災の前後に長女を亡くし、自らも病を得て、気力と体力を失い、アトリエをたたんだことでした。筆を折って、自分が丹精込めて描いてきた原画の行方を案ずるようになります。
「僕の長女は亡くなり、次女は他家に嫁いだ。僕が死んだら、原画を著作権とともに引き継いでくれる親族がいない。相続税が課せられ、売買の対象となる可能性もある。苦労してマンガ家になり、心血を注いだ原画が、かつての浮世絵のように散逸してしまうとしたらつらい。信頼できる施設に寄贈できれば安心だ。横手市増田まんが美術館にはその拠点になってもらいたい」(同)
原画の扱いは、多くのマンガ家が困っているともいわれます。収蔵場所に困って捨てる、ファンにばら売りする、何らかの形で流出してマニアが高値で取引する、作家の没後に行方不明になる、といったケースが出ていました。マンガ文化の価値が上がれば、原画に莫大な相続税が課せられる可能性も指摘されています。
そこで2015年、矢口さんはいち早く「釣りキチ三平」をはじめとする自分の原画、約4万2000点を横手市増田まんが美術館に寄贈しました。現物の保存と、デジタルデータ化の両面で残していく作業に取り組んでいます。ただ「マンガ文化のためには自分の原画だけでは意味がない」。この矢口さんの思いが2019年のリニューアル、そして他のマンガ家の原画収蔵につながっていきます。
横手市増田まんが美術館には「海月姫」などで知られる東村アキコさんの原画、約1万5000点も収蔵されています。説得したのは矢口さんでした。矢口さんの自宅近くの行きつけのすし屋さんで会談が行われたそうです。
もともと「自然の風景を描く際には『釣りキチ三平』を傍らに置いて参考にしてきた」という東村さん。すし屋さんでの会談を、こう振り返っています。
「矢口先生は私にとっては『歴史上の人物』で、ぜひお会いしたかった。自分の原画は自宅の押し入れに突っ込んだままだったので、『美術館で預かってやる』と言われて『お願いします』と。これでうちが火事になっても大丈夫」(同)
矢口さんは生前、横手市増田まんが美術館を「将来『国立マンガアーカイブ』のようなものができるならば、その分館にしてほしい。何しろ田舎でスペースは広いから、原画の収蔵場所はたくさんある」とお考えでした。横手市増田まんが美術館は2020年、文化庁から国内唯一の原画相談窓口としての事業を委託され、多くのマンガ家たちからの相談が来ています。最大70万点の原画が収蔵可能とのことです。矢口さんの遺志が叶う日も、そう遠くはないかもしれません。
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