バックパッカーの教祖がリアルに、鮮やかに描いたまごうことなき名著
[レビュアー] 北上次郎(文芸評論家)
書評子4人がテーマに沿った名著を紹介
今回のテーマは「旅」です
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名著である。この稿を書くために再々読したが、その確信は揺るがなかった。
蔵前仁一『あの日、僕は旅に出た』は、バックパッカーの教祖と言われる人間がどのように生まれたのか、その過程をリアルに、鮮やかにつづったドキュメントである。素晴らしいのは、この男、別段旅が好きだったわけではないのだ。仕事に疲れて、ちょっと気晴らしに海外旅行でもしてみるか、とインドに行っただけなのである。しかもその二週間のインド旅行が楽しかったわけでもない。いちばんショックを受けたのは駅の窓口でカルカッタへの切符を購入したとき。目の前で札を数えた駅員がわざと1枚落とし、10ルピー足りないと言うのだ。こんな国に二度と来るかと著者はぐったりして帰国する。そういう青年が後年、バックパッカーの教祖と言われるようになるのだから人生は面白い。
しかしそれだけではない。本書が興味深いのは、その後著者が「旅行人」という出版社を設立することだ。一時期はアルバイトを含め10人の規模にまでなったらしいが、小出版社である。だから仕事は面白くても経営が大変だ。そのディテールが、数字がばんばん飛び出し、臨場感たっぷりに描かれるのである。小さな出版社で働いた経験のある者にはこれが実に興味深い。
学生時代に働いていた漫画専門誌「ぱふ」の話も出てくるので(若き日の著者が漫画家を目指していたことを本書で初めて知った)、古いファンには懐かしい。