なぜ私たちは“正しくない人”を叩きたくなるのか? 脳科学者・中野信子のベストセラー『脳の闇』試し読み

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どうして私たちは「正しさ」から逸脱した人を叩きたくなるのだろうか。

脳科学者で医学博士の中野信子が、自身の半生と脳科学の知見から脳に備わる深い闇を解き明かした『脳の闇』(新潮新書)。

現代の病理を見つめながら、他者を糾弾する空気が生まれる理由について語った本書の第3章「正義中毒」の一部を特別に公開します。

「正しさハラスメント」

日本の鉄道の運行について面白いデータがある。

山手線が1周に要する時間は約60分である。乗り換えの有無にもよるが、1日に20周程度できる計算になる。この約20周分のうち、最も速い1周と、最も遅い1周の時間差はどれくらいになるか、想像がつくだろうか? ある1日をサンプルとして実際に測定を行った人が出した答えは、15秒である。平均的にはどの程度になるか、確かめてみても面白いかもしれない。

1分程度の差があってもいいようなものだと多くの人は思うかもしれない。が、JRでは1分の遅延があれば「遅れ」とカウントすると聞いた。事故等がなければ、1周に要する時間の差は1分以内になるようあらかじめシステムが組み上げられ、制御されている、ということになる。その範囲に収まる「15秒」という数字は、日本の鉄道関係者の驚くべき努力と技術の結晶でもあり、これは技術を超越した何かを感じさせるデータにも見える。

極めて誤差の少ない正確な運行を可能にするこうした気質を、同じ日本人として誇らしく思う一方で、正確さが重視されるあまり、過剰な責任を現場の人々が負ってしまっているのではないかと、気懸かりになることがある。2005年に起きたJR福知山線の脱線事故が思い起こされる。

鉄道を例に挙げたが、日本全体に、どの分野にも、独特の空気とでもいうべき言語化しにくい何かがあるように思う。この「空気」は、人々が責任感を持って質の高い仕事を遂行したり、個人が努力して現場の課題を解決したりという大きな社会的利益をもたらすものでもあるのだが、あまりにその濃度が濃いために、窒息しかけてしまっているような人もたびたび見かける。

誰もが認める「正しさ」という空気のような何かがある。ポリティカルコレクトネス、と呼ぶ人も多いようだ。そこから逸脱した人を叩く行為が、この数年目立つようになった。「正しさハラスメント」とでも呼べばよいだろうか、時にはひどく息苦しく感じられる現象でもある。「正義のためなら誰かを傷つけてもいい」「平和のためなら暴力を行使してもいい」という思考をもつ人を、私は好きになれない。

脳ではこの「正しさ」はどのように処理されているのだろうか。

前頭前野には、良心や倫理の感覚を司っているとされる領域がある。これは前頭前皮質の一部にあたる場所で、内側前頭前皮質という。倫理的に正しい行動を取れば活性化され、快楽が得られる仕組みになっているようだ。「正しさ」に反する行いをした場合には逆に、ストレスを生じて苦痛を感じさせる。誰が見ていなくても、悪いことをするとうしろめたさを感じるものだが、それがこの苦痛だと考えてよいだろう。

これだけ書くと、人間の行動を「正しい」側に持っていこうと制御する素晴らしいシステムであると捉える人が多いかもしれない。が、実際の運用上はそうなっているとも限らないのがやっかいなところだ。この良心の領域は、自分が「正しさ」に反する行いをした場合だけでなく、自分ではない誰かが「正しさ」に反する行いをした場合にも苦痛を感じさせ、それを解消しようと時には攻撃的な行動を取らせたりもする。

つまり、正しさを逸脱した人物に対して制裁を加えたいという欲求が生じるのだ。「正義のためなら誰かを傷つけてもいい」という、よく考えれば矛盾した思考の源泉の一つがここにあるといってよいだろう。

巷間よく言及されている、その人物に制裁を加えても自分の利益にはならないのに、なぜ攻撃するのかという問題に、これは一つの示唆を与える知見ではないかと思う。利益にならないどころか、返り討ちに遭う可能性すらあるにもかかわらず、それでも、その人を罰せずにはいられないというのは、制裁が功を奏して、その人物が行動を改めれば、自らの苦痛は解消されて快楽物質ドーパミンが分泌されるからだと考えれば説明がつく。

正義の味方として、みんなのルールから逸脱した誰かを見つけ、そこに制裁を加えるだけで、お手軽に快楽物質が分泌されるのだとしたら、こんなに手軽なエンタメは他にはないというわけだ。人間が今の姿である限り、週刊誌的な記事はこれからも書かれ続け、読まれ続けるだろう。

いじめ、と一口にいうけれど、子どもたちの間で起ころうとも、現象としては同じことだ。このことは、心理学者たちの研究をていねいに繙(ひもと)けばわかることで、規範意識が高まっている状況下で、いじめはより激化するという研究さえある。要するに、規範に従わない者はどんな目に遭わせてもいい、という圧が、規範意識が高い場ではより起こりやすくなってしまうという理屈である。

「正義の味方」たちは、正義を執行する快楽に飢えていて、みんなの正義、みんなのルールが守られない事例をいつも探していて、冷静な言葉も論理的な思考もこの人たちを止めることは難しい。遮ろうとする者に対しては、いかにそれが理性的であったとしても、むしろそれだからこそ、正義の鉄拳を寄ってたかって揮(ふる)いたがるものであるから、慎重に扱う必要があるだろう。

続きは書籍でお楽しみください

中野信子
1975年東京都生まれ。脳科学者、医学博士。東京大学大学院医学系研究科脳神経医学専攻博士課程修了。現在、東日本国際大学教授、京都芸術大学客員教授。『脳内麻薬』『サイコパス』『不倫』『ペルソナ 脳に潜む闇』など著書多数。

新潮社
※この記事の内容は掲載当時のものです

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1896年(明治29年)創立。『斜陽』(太宰治)や『金閣寺』(三島由紀夫)、『さくらえび』(さくらももこ)、『1Q84』(村上春樹)、近年では『大家さんと僕』(矢部太郎)などのベストセラー作品を刊行している総合出版社。「新潮文庫の100冊」でお馴染みの新潮文庫や新潮新書、新潮クレスト・ブックス、とんぼの本などを刊行しているほか、「新潮」「芸術新潮」「週刊新潮」「ENGINE」「nicola」「月刊コミックバンチ」などの雑誌も手掛けている。

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