『話す力 心をつかむ44のヒント』
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阿川佐和子さんが考える、話し相手とのちょうどいい距離感のとり方
[レビュアー] 印南敦史(作家、書評家)
『話す力 心をつかむ44のヒント』(阿川佐和子 著、文春新書)は、「週刊文春」の連載対談「阿川佐和子のこの人に会いたい」が連載30周年を迎えた著者による「〜の力」シリーズ最新刊。
タイトルにあるとおり今回は「話す」をテーマにしているわけですが、まず冒頭には「話す」と「喋る」は少し違うという記述が登場します。
「話す」は相手の気持やその場の雰囲気、流れ、話の趣旨などをしっかりわきまえて、客観性や順番にも配慮して、穏やかに語りかける印象があるのに対し、「喋る」は、その場でパッと思いついたことを唐突に、あるいはダラダラと、もしくは感情にまかせて口から勢いよく発するという感じでしょうか。(「ちょっと長めのまえがき」より)
つまり「話す」はビジネスの現場など、比較的かしこまった場所でまじめな話をするときや、冷静に伝える必要がある状況、きちんと対応しなければ失礼になる相手を前にして行われるもの。
一方の「喋る」は、気を張る必要のない場所、気を遣わずに済む相手を対象に行われるものだということ。
しかし、それ以前の大前提として、そもそも日本人には当たり障りのない話題を持ち出すことこそが大切だと考える傾向があったりもします。端的にいえば、自主性に欠ける民族であるわけです。
ただし、そうだとしても、会話の妙や楽しみ方はあるはずだというのです。
最初から自分の意見を強く押し出すのではなく、相手やまわりの気持を推し測りつつ、発言を試みる。それもまた悪くない文化だと思えば、話の切り出し方の小さな糸口が見えてくるような気がします。(「ちょっと長めのまえがき」より)
だとすれば、どんな方法があるのか。本書において著者は、その点を明らかにしていこうとしているのです。きょうはそのなかから、II「話し相手との距離感」に焦点を当ててみたいと思います。
距離と時間をおくことも必要
人との距離を縮めようとすることも大事ですが、逆に、あえて距離をつくる必要が生じるケースもあるもの。
著者も「最近、関係がギクシャクしてきたな」と感じたり、相手にきちんと伝えなければならない場面に出会したときなどには、しばらく距離と時間をおこうと思うことがあるのだそうです。
これ以上、言い合いを続けていたら、まずいことになりそうだと思ったら、スウッとその場を去ってみたり、連絡を取る頻度を少なくしてみたりします。
しばらく音信不通にしてから久々に再会してみると、ギクシャクしていた原因がなんだったかも思い出せないほど、「なんだ、いい人じゃん」と、相手の魅力的な部分だけが復活することもあります。そのためにも、しばし距離をおくということは大事なのではないでしょうか。(82ページより)
たしかにそれは、距離感を調整するために重要なポイントかもしれません。
ところで親が子どもを叱るとき、いつの間にか丁寧語になっていることがあります。著者は、それもまた距離感調整のひとつだと考えているようです。
「だめだめ、触っちゃだめよ。だめだってば、もおおおお」
何度叱ってもいうことを聞かない子供に対し、
「どうして私の言うことが聞けないのですか? 人に迷惑がかかるのですよ!」
丁寧語を使った途端、子供は、「これはただごとではないな」とびっくりするでしょう。いつも優しい言葉をかけてくれる母親や父親が、他人行儀な言葉を使っている。本気で怒っているんだなと気づくはずです。(64ページより)
それは、ことばの使い分けによって距離感を測ることができる一例。もちろん子ども相手ではなかったとしても、あるいは逆の立場だったとしても応用できるはず。
たとえば、いつも親しい口の聞き方をしていた人が急にていねいなことばを使い始めたり、クールな態度をとりはじめたりしたら、「あ、この人、距離をとりたがっているのかな」と察するべきかもしれないわけです。(82ページより)
どんな接続語で始めるか
会話の冒頭に、どのような接続詞をつけるべきか。
当然ながら、その点についての考え方は人によってさまざまです。ちなみに著者はインタビューのなかで、「でも」を冒頭につけて会話を進める悪い癖があるのだとか。気をつけているつもりなのに、つい出てしまうというのです。
「でも」はそもそも逆接を意図する接続詞です。だから「でも」をつける以前に言った、ないし聞いた話の内容と、逆のことを発言したいときに使うべき言葉です。
正確な用法としては、
「昨日、お財布を落としちゃった」
「あら大変」
「でも、中身は小銭が少しだけだったから、被害は小さくて済んだの」
「まあ不幸中の幸いね」
「でも、そのお財布、ブランドもので高かったのよ。すっごく悔しくて」
「でも、買ってくれたのは、旦那様なんでしょ?」
「でも、所有者は私だもん!」
そんな感じでしょうか。(102ページより)
たしかにこれは、用法的には間違いではないでしょう。
ただし、ずいぶん「でも」が多い印象があることも否めません。この点については著者も指摘していますが、あまり同じ接続詞を多用するのは会話として美しくないのです。わかってはいても、その反面、自分ではなかなか気づきにくいことでもあるのですけれど。
会話の頭に「っていうか」とか「そうじゃなくて」とか「いや」とかをよく使う人がいます。
きっと本人には相手を否定しようという意図はなく、「もう一つ、私自身の意見を加えたい」ぐらいの気持で、そういう接続語が出てしまうのだと思います。
が、言われた側は、「っていうか」と来たら、これから自分の発言とは反対の話が出てくるのかと思って神妙に聞いてみるけれど、いっこうに反対意見は出てこない。
むしろ結局、私と同じことを言ってるじゃないのと、ちょっとカチンとくることもある。そういう経験をした方はいらっしゃいませんか?(104ページより)
こんなところからもわかるとおり、話し始めの接続語には心を配る必要があるわけです。
しかも使っている本人がいちばん気づいていないということも多いだけに、話し始めに癖があるかどうか、親しい人に聞いてみるのもいいかもしれないと著者は述べています。(101ページより)
話して伝えるのは決して楽なことではありませんが、著者自身の経験に基づいた本書を参考にしてみれば、なにかのヒントを見つけることができるかもしれません。
Source: 文春新書