日本人は「和」を乱さない、議論を好まない人々だと言われる。実際、議論に苦手意識を持ち、他人の議論を見るのもストレスだという方も多いのではないか。
しかし、本当に日本人は議論や論争が嫌いなのだろうか?比較文学者で『1日10分の哲学』(新潮新書)の著者・大嶋仁さんは、そう結論付けてしまっては早とちりだという。もともとは議論が嫌いではなかったのに、明治時代後半に議論なんて「しても始まらない」という風潮が蔓延してしまったとも語る。
いったい何があったのか。以下、同書から見てみよう(『1日10分の哲学』を引用・再構成しました)。
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日本人は議論のかわりに和歌を詠む民族だと言った「本居宣長」
日本人は議論が苦手であるにちがいない。議論好きのインド人を相手にするのは疲れる、とある商社マンから聞いたことがある。中近東に派遣するなら、口の達者な大阪人を派遣しろと方針を固めた総合商社もあったと聞く。日本人は言わなくても通じる相手を好み、言外のコミュニケーションを尊ぶ。
私自身、南米はアルゼンチンにいたとき、ある家に招かれてそこの奥さんの察しのよさに驚いたことがある。旦那がしゃべっている間に、奥さんが周囲の状況を把握し、客人である私の居心地をできるだけよくしようと心配りをしてくれたのである。
後でわかったが、その奥さんはロシアから移住したユダヤ人で、旦那の方はナポリ出身の移民の子であった。以来、ユダヤ人には他の西洋人にない直感力があるという「偏見」を抱くことになった。
議論がなければ“都合のよい人”に…
だが、そうはいっても、議論はやはり必要である。論争も時には大事である。キリシタンの宣教師が日本に来た時も、仏教の僧侶が宣教師と大論争をしている。これらの論争は、どちらが勝ったかということより、それぞれが主張をぶつけたこと自体に意味がある。それを避けていれば、日本人は宣教師にとって都合のよい「温和な人々」ということで終わっていただろう。日本人が論争嫌いなどというのは、早計である。
感情的になれば話は別だが、そうでなければ論争には二つのメリットがある。互いの立場がはっきりすること、また場合によっては自らの立場を修正できることである。そこで思い出されるのが、明治の半ばに起こった二人の文学者の論争である。ドイツ留学から帰ったばかりの森鴎外と、英文学者として名を成していた坪内逍遙のあいだで争われた。
論争は、逍遙がシェイクスピアには理想がない、自然そのものであるところが素晴らしいと誉めたのに対し、鴎外が理想がなくて作品はつくれない、シェイクスピアが優れているのはその理想が見え見えでない点にある、と逍遙の立場を否定したことから勃発した。逍遙はあくまでも芸術は自然に近ければ近いほどよいという立場で、鴎外は自然界にも理想はあり、その理想を掘り出すのが芸術家の仕事だという立場に終始したのである。つまり、芸術とは何かという問題に関しての論争で、これによって論争者それぞれの自然観が浮き彫りにされた。
この論争の面白さはそれがバトルだからで、格闘技を見て面白いのと共通する。鴎外の西洋型論理に対する逍遙の伝統的ねばり腰。一見して鴎外が打ち負かしたように見えて、実はそうでもないところが面白い。
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