『夜行』
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“やこう”か“やぎょう”か。陥穽に満ちた恐るべき怪談
[レビュアー] 杉江松恋(書評家)
読むほどに夜の闇が沈積していく。
森見登美彦『夜行』は二〇〇六年の『きつねのはなし』以来、ひさびさに上梓した怪談小説である。
一つの額に嵌め込まれるようにして複数の物語が綴られていく。ある英会話スクールに通っていた者たちが親しくなり、連れ立って鞍馬の火祭見物に出かけた。その雑踏の中で、長谷川という女性が神隠しにでも遭ったように姿を消してしまったのである。それから十年の時が過ぎ、残された者同士で再び火祭を訪れようということになった。祭の始まりを宿で待つ間、彼らは一人ずつ旅の思い出を語っていく。
それぞれの話には必ず、岸田道生という作家が手掛けた「夜行」という銅版画の連作が登場する。他人のようなよそよそしい態度に変わり、何も告げずに旅立っていった妻を追って訪れた尾道、道中で行き合った女性に不吉な予言をされ、胸騒ぎを抱えながら行き着いた奥飛驒、ゆかりのない土地であるはずなのになぜか子供のころの記憶と景色が重なって見える津軽、ローカル線に乗って天竜峡を通り過ぎながら蘇ってくる過去の一こま。「夜行」に描かれた情景が本来の終点であったかのように、旅する者たちは夜の世界へと吸い込まれていくのである。最終章「鞍馬」は、それまで話の聞き手に回っていた〈私〉こと大橋の物語だ。ここで、使っていた絵具が替えられたかのように、夜の色彩はがらりと変化する。
『夜行』という題名には一切ルビが振られていない。夜行(やこう)列車に乗ったときのあの寂しさと百鬼夜行(やぎょう)の禍々しさを兼ね備えた小説なのである。小説のところどころに陥穽があり、魔に魅入られるような美しい表現に触れるたびに魂を吸い取られた気分になる。岸田道生の銅版画を見た登場人物と同じことが森見の作品を前にした読者の身にも起きるのだ。森見作品の特徴である、現実から数センチだけ浮き上がったような文章が、本書では恐るべき武器として用いられた。実に剣呑。