佐伯啓思 「民主主義」の真実/塩野七生『ギリシア人の物語II 民主政の成熟と崩壊』

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ギリシア人の物語Ⅱ 民主政の成熟と崩壊

『ギリシア人の物語Ⅱ 民主政の成熟と崩壊』

著者
塩野 七生 [著]
出版社
新潮社
ジャンル
歴史・地理/外国歴史
ISBN
9784103096405
発売日
2017/01/27
価格
3,240円(税込)

書籍情報:版元ドットコム

佐伯啓思 「民主主義」の真実

[レビュアー] 佐伯啓思(社会思想家)

 私はギリシャの歴史にはまったく不案内なので、本書の一読者ではあっても、とても書評などできる立場にはない。にもかかわらず古代ギリシャに関心をもつのは、今日、われわれが当然のものとして疑わない民主主義という政治制度を確立したその原点を知りたいからである。いったいどうして、かの地でそれは生まれたのか。そもそもそれはどういう政治だったのか。このことがずっと気になっていた。

 いやその前に、そもそも「それ」は民主主義だったのだろうか、という疑問がある。デモクラシーのもとになるデモクラティアとは、「デモスの支配」であるから、文字通りには「民衆政治」といった政治形態を意味している。この単純な一事を思い起こしても、それはせいぜい「民主政」というべきもので、「民主主義」と訳する方がおかしいのだ。だがとりわけ戦後の日本では、デモクラシーは人権主義やら平和主義とひとくくりにされて、疑う余地のない正義にまで仕立て上げられてしまっている。

 もともとデモクラシー(民主政)とは断じてそんな理想的な「主義」ではなかった。アテネが生み出し確立したデモクラシー(民主政)を、現代風の「民主主義」によって理解してはならない。塩野七生さんの『ギリシア人の物語』の第一巻が「民主政のはじまり」という副題を持ち、今回刊行される第二巻が「民主政の成熟と崩壊」と題されているように、ギリシャを語ることは、民主政のアテネの興亡を描くことを意味する。そしてこの場合にいっそう大事なことに、この「民主政アテネの興亡」を描くことは、ギリシャを舞台にした絶え間ない戦争と、つかのまの平和を描くことなのである。

 だから、アテネの民主政をアテネだけで理解することは許されず、その興亡も戦争を抜きにしては捉えられない。それゆえ、本書の記述の大部分は、ギリシャ全土を見渡した戦争や、戦争の回避をめぐる出来事や、そこに登場する人物を描くことに費やされている。アテネの民主政を理解するためにも、何よりもまずわれわれは、ギリシャ全土のおおよその地理を理解しておかなければならないのだ。この地理学と地政学とを前提にしてはじめて、本書の第一巻が扱うペルシャ戦役や第二巻が主題とするペロポネソス戦争の意味を理解することができる。

 本書をひもとけば、われわれはアテネの民主政の構造を理解することができる。第一に、アテネの政治は、活発に行われた植民地化活動と不可分であった。しかも、その多くは海岸部の諸都市の植民地化であり、その結果、アテネは海洋交易を通じた巨大な経済圏を確立した。第二に、植民地化にせよ、戦争にせよ、造船が必要になる。そこで造船技術が発展する。特にアテネでは三段層ガレー船が次々と建造され、その漕ぎ手は下層市民であった。市民であるところが、奴隷を漕ぎ手にしたスパルタとの違いである。なぜなら市民は兵士であり、民主政は、市民つまり兵士を多量に供給できたのである。「軍事大国アテネ」と「経済大国アテネ」と「民主政アテネ」は不可分であった。

 第三に、アテネの民主政は、最終決定は市民集会でなされるものの、実際には、「ストラテゴス」という指導者によって率いられた。そして、ストラテゴスは将軍であり、戦争の英雄である。また、テミストクレスを除けば、ほぼすべて有力な名家の出身であった。アテネ民主政は、実はあまり民主的でない指導者に率いられたのであった。第四に、アテネの政治は、次々と有力な指導者をうみだしていった。これはアテネ民主政の柔軟さと社会の活発さを意味している。しかし、逆にまた、どんな有能な指導者であれ、敗戦などという失敗によってたちまち失脚するのである。つまり、民主政は人気主義(ポピュラーリズム)へと堕してしまうのだ。最後に、盛期のアテネを支えたものは、強力な独立心と誇りであったが、同時にそれは、暴慢さや慢心にもなりかねないのである。

 本書は、政治というものが、いかに戦争と深くかかわっているかを如実にしめしている。ペルシャ戦役に勝利して大国にのしあがったアテネは、決して望みはしないスパルタとの戦争へ引きずり込まれてゆく。自らの慢心のために、アテネはわずか二十五年ですべてを失うのだ。二五〇〇年も前のギリシャを舞台に、あまり馴染みのない人物までもが生き生きと動き出すのは、いつもながらの塩野さんの語り口の妙味によることは言うまでもない。

新潮社 波
2017年1月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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