まだわからない。しかし、きっといつかわかる。 日和聡子

レビュー

29
  • このエントリーをはてなブックマークに追加

現実宿り

『現実宿り』

著者
坂口 恭平 [著]
出版社
河出書房新社
ジャンル
文学/日本文学、小説・物語
ISBN
9784309025148
発売日
2016/10/27
価格
2,160円(税込)

書籍情報:版元ドットコム

まだわからない。しかし、きっといつかわかる。 日和聡子

[レビュアー] 日和聡子

 坂口恭平著『現実宿り』は、70の断章から成る書き下ろし長編。冒頭に置かれた断章は、こうはじまる。〈砂漠には時折、気まぐれな風が吹いた。その風がどこからきたのか誰も知らなかった。そもそも誰もそこにはいなかった。人間がいなくなってかなり月日が経っていた。風がまた吹いた。砂は退屈そうにまたがると、地表の上すれすれを回転しながら流れていく。移動した先でまた出会いがあればいい。いつも砂は移動した先で家族とは言えないまでも、集団を形成していた〉。本作はまさにここに記された、〈砂〉が集団を形成するようにして成り立っている。各断章の語り手や視点は、〈わたしたち〉〈わたし〉〈おれ〉などと自称するそれぞれの存在に、順序不同で移り変わっていく。おのおのは別別に位置するが、果てしない時空や夢現つのなかでは、絶えず何かが何かに、誰かが誰かに、視点や思念、その身のありようが入れ替わり、変化していくものでもあり、それらはすべて、大きなところで一つのものとしてつながり合っているとも見える。〈おれがいろんなやつになりかわっているんじゃない。いろんなやつのうちの一人がおれというわけでもない。おれはいくつかに分解されていた。だが、同時に、おれは一つにまとまろうともしていた。それがおれ自身の姿なのかどうかさえわからない〉。そう語る者もいる。

 冒頭の断章は、〈わたしたち〉と称する砂漠の〈砂〉が語っている。そこには、男か女か〈砂〉には見分けのつかない〈ルー〉と名乗るものがあらわれる。〈その生き物は砂であるわたしたちに話しかけてきた。それは人間らしき形をしていたが、人間ではなかった。そんな存在は図書館にあるどの本にも書かれていなかった〉。〈砂〉はこれより前、〈地中に埋まっている図書館〉を探し出し、そこに通ってあるやりがいを得ていた。〈一つは人間が書いた本を読むこと。そしてもう一つは、わたしたちなりの文を書いてみるということ。わたしたちはこのようにして本を書きはじめた〉。〈砂〉は、この〈ルー〉が〈わたしたちの書いてきたものを、読んでくれるのではないかとすら期待するようにもなった。それがどのような効果をもたらすのか、今のわたしたちにはわからない〉と語る。これは、本書のありかたをそのまま示すものとも言える。

 本作には、このほかにも、鳥や馬や森や夢や音楽や文字や村や水や光や長老など、さまざまなものや生き物があらわれて、夢と現、プリミティブなものと観念的なものとが渾然一体となった様相を呈する。多岐にわたるそれらのエレメントは、それぞれが自身以外の何か別の意味をも暗示するよう託されているかにも感じられるが、かならずしもそのように意図され巧まれたものではないと思われる。本作については、直感と信念に沿って書き進められるその流れと表現に寄り添って、そこから感じられるものをそのままに感受していくべきなのだろう。作者あるいは語り手が、そこにあらわしていること、語っていることを、そばでただ浴びるようにして聴きながら、自ずと伝わってくるものを、自身の内にも浮かべ、映し出していく。話の辻褄や、論理を含む記述の正確さや整合性といったものを、当然の前提として求めてかかると、読み進めることに幾らか困難や抵抗を感じることもあるかもしれない。しかしそこに拘泥していては、大切なものを掴み損ね兼ねない。本作を読むにふさわしいすべを個個に見出してこれに当たれば、受け取り得るものは随所にちりばめられている。

 当初、私は本作を「小説」として読みはじめたが、読み進めるうち、これは「小説」とは違う何ものかであると感じた。「小説」にはもとより多様なかたちや可能性があり得る。したがって本作を「小説」としては認められないと言うのではない。むしろ肯定的な意味合いで、これは「小説」の範疇に押し込める必要のないものであり、「小説」でない可能性をも含むものだと感じたのだ。本作は、まずこうしたかたちの一つの固有の「テクスト」として存在するのであろう。そして、まだ見ぬ何か別の名で呼ばれ得るものとして。

 この独自の形体と性質をもつ作品は、作者が己の直感や実感や生理や信念に基づいて、意図的に、そして避けがたく、こうした表記形態、記述方法を取ったものであるのだろう。それは書き手として、表現者としての、作品に向き合う作者の誠実さ、真摯な姿勢を反映しているものであるに違いない。物語は、読者が棲む現実世界の論理や法則などと関わりなしに読まれることはできないだろうが、そうしたものに縛られず、むしろそれらを根底から崩し、捉え見つめ直す視点を、作者は提示し、投げ掛けている。作者が自身の実感と作中の「現実」をそのままあらわすことを貫いたところに、本作の価値と醍醐味はある。

 一読者としては、さまざまに登場する作中人物のなかで、〈モルン〉という存在に注目した。ある朝、語り手の一人である〈わたし〉のもとに電話をしてきた、内モンゴルの出身の人物。村の長老に指示されて、六年前に夢で見た男を探し出して連れ帰るべく、日本に来ているのだと言う。自らが探すその男というのが、〈兄貴〉すなわち〈わたし〉であるのだと。〈モルン〉は〈わたし〉の本の読者であり、〈わたし〉あるいは作者のなかの一つの人格、もしくはその分身的存在であるようにも考えられる。〈「いままで見てきたこととは違う。兄貴には役目があるんだよ」/「役目って何だ?」/わたしは首をかしげたまま、体が硬直していることに気づいた。/「役目といっても、それは誰にも役に立たない」〉。また、〈「見えていることをそのまま書く。それはとても難しい作業だよ。(中略)つくったらだめだ。つくりものはすぐだめになる。それは建物だからね。揺れたら、倒れてしまう。つくらないこと。風景をそのまま素直に描写すること。それだけでいい。ところが、それが一番難しい。〉と〈モルン〉が〈わたし〉に言う言葉は、私個人の考え方と共通するところもあり、印象深い。このあと彼はこう続ける。〈おれが兄貴に会ったことにはやっぱり意味がある。それはまだおれもわからない。しかし、きっといつかわかる。意味がわかるというよりも、その世界をそのままからだで感じられるようになるんだろうね」〉。この言葉は、まるで本書に出会った読者に向けられたものであるようにも感じられた。

新潮社 新潮
2017年1月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

  • このエントリーをはてなブックマークに追加