人生の真実はその悲しみを素直に受け入れることから始まる――生きる意味を考えさせる力にみちた物語

レビュー

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生きる意味を考えさせるまことに力にみちた小説

[レビュアー] 池上冬樹(文芸評論家)

 最初、海外を舞台にした歴史ファンタジーかと思った。“春はやっとその恵みを静かなる野、モーヌップの大地に与え始めている/ピタカムイ大河は遠い脊梁山脈の雪解け水を満々と湛えて冷たかったが、土手のそこここにはもう春の芽が緑の頭を覗かせている”という書き出しで始まるからで、しかも主人公は“窪んだ眼窩の奥に大きく澄んだ緑色の目がキラキラと輝いている”と描写される。名前はマサリキンで、名馬トーロロハンロクと遍歴修行中の吟遊詩人とあるから、てっきり欧州が舞台かと思った。

 ところが、載せられている地図をみると、明らかに宮城と岩手の太平洋側である。そう、舞台は日本で、時代は読んでいくとわかるが、奈良時代はじめの七二〇年である。本書は、まるで海外小説(ファンタジー)のように描かれた東北の古代史であり、格調高き叙事詩である。

 物語は、マサリキンが女奴隷のチキランケと出会う場面から始まる。

 エミシの民は、バンドーから移り住んできた豪族による圧政に苦しめられていた。いくら働いても搾取され、チキランケも借財のかわりに売られ、豪族への貢ぎ物にされようとしていた。

 マサリキンとチキランケは一目で恋におち、愛馬とともに逃亡を試みるものの、追手に囲まれてしまう。マサリキンが敵に怒りを放つと、愛馬は襲いかかる相手の喉を噛み切り殺してしまう。だがその相手は敵将の愛息で、過酷な追跡をうけることになる。

 マサリキンが他の女奴隷を助けるべく戦っている合間に、チキランケは再び囚われてしまう。そして豪族を支配する地方司令官アゼティの愛人になることを命じられる。

 詩人が歌い、女奴隷が歌い、活劇があり、笑いがあり、ふたたび歌と活劇があり、チキランケを求めるマサリキンの過酷な戦いが繰り返される。上下巻の分厚い小説であるけれど、実にスピーディで読みやすく、劇的で、浪漫的で、飽きさせない。

 もちろんこれは歴史小説でもある。エミシは蝦夷、アゼティは按察使(地方行政を監督する令外官の官職)、アゼティが拝謁したアペー女帝は阿閇皇女(第四十三代元明天皇)、ピータカとは氷高皇女(第四十四代元正天皇)のことだ(余談になるが、十一月に出たばかりの馳星周初の歴史小説『比ぶ者なき』〈中央公論新社〉は藤原不比等を主人公にしてこの時代の大和朝廷を描いていて実に興味深い)。さらにウォーシカ、トヨマナイ、イデパなど地名もすべてカタカナであるけれど、牡鹿、登米、出羽であることは東北人ならすぐにわかる。日本史からみるなら大和と蝦夷の戦争、および蝦夷の反乱の物語ということになるが、作者は日本史の一こまにするのではなく、抑圧された人民の蜂起、権力との対決、民族の独立といった世界のどこでも起こりうる物語に仕立てた。この普遍化の手続きが実に念入りで、精緻で、まことにリアルだ。

 そもそも作者の山浦玄嗣はケセン語(岩手県気仙地方の方言)による聖書の翻訳で注目され、福音書の新たな物語である『ナツェラットの男』(ぷねうま舎)で第二十四回 Bunkamura ドゥマゴ文学賞を受賞している。伝承文学の現代化、物語の神話化に著しい才能をもっているのだが、それは本書でも十二分に発揮されている。

 タイトルのホルケウとは“狼”の意味であり、マサリキンが生まれたケセ衆の戦いの歌『狼の歌』によっている。つまり光と勝利を求めて“疾風のごとく、嵐のごとく/山を越え、野を越え、谷を越えて”走った狼のような戦士たちをさす。だが、この小説が読む者の心に残るのは、さまざまな戦士たちの熱き果敢な挑戦ばかりではなく、ちりばめられた箴言にもある。“人生の真実はその悲しみを素直に受け入れることから始まる”“人生の価値は理解の深さによって決まる。長さの問題ではない”などがしらずしらず読者の人生を照らすからである。波瀾万丈の物語を楽しむばかりではなく、生きる意味を考えさせる、まことに力にみちた小説だ。

KADOKAWA 本の旅人
2017年1月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

KADOKAWA

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