幽霊が覗く珍妙な日常 戌井昭人

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浮遊霊ブラジル

『浮遊霊ブラジル』

著者
津村 記久子 [著]
出版社
文藝春秋
ジャンル
文学/日本文学、小説・物語
ISBN
9784163905426
発売日
2016/10/24
価格
1,430円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

幽霊が覗く珍妙な日常 戌井昭人

[レビュアー] 戌井昭人(作家)

 日常は不気味で不思議なことがたくさん潜んでいる。それらに対峙したとき、不安になったり、悩んだり、苦しくなったりする。一応、解決をしようと試みるが、結局はどうにもならないことが多くて、「まあ、そんなもんだ」とうっちゃって、なんとかやっていく。『浮遊霊ブラジル』の七編を読んで、そのような人たちを想像した。

 川端康成文学賞を受賞された「給水塔と亀」は、定年を迎えたひとり者の男が、子供のころに住んでいた町に引っ越してきて、新しく届いた自転車に乗ってうろうろする。わたしも勝手にパトロールと称して自転車でうろうろすることがあり、なんだか親近感をおぼえた。男は自転車に乗りながらビールを欲したりする、これも同じだ、なんせ体を動かした後のビールは美味しいですから。男は引越し先の管理人から亀をもらう。その亀を眺め、ビールを飲んで水茄子を齧る。とても清々しい瞬間だ。その気持ち良さもよくわかる。このような男であるが、何も考えずに生きてきたわけではない、本文に次の箇所がある。「いつまでも気楽でいたいと思っていたわけではない。けれど、いろいろなことの間が悪くて、私も積極的になれなかった。後悔はしている。人間が家族や子供を必要とするのは、義務がなければあまりに人生を長く平たく感じるからだ。その単純さにやがて耐えられなくなるからだ。」、読んで「ううう」となってしまった。身につまされる感じがした。しかし改行されて次の文では、「というような考えは、引越し業者の到着とともに雲散霧消してしまった。」とあった。わたしは「へへへ」と思った。このような軽快さとユーモアが津村さんの文章にはあって、読んでいて楽しい。水茄子のような清々しさがある。

 表題作の「浮遊霊ブラジル」もそうなのだが、津村さんは、おっさんの気持ちをよくわかっていらっしゃる。おっさんが主人公の話が抜群に面白いので、これ自分じゃないかと思う男性読者は多々いるのではないか。作品は、生まれて初めての海外旅行でアイルランドに行くのを楽しみにしていた七二歳の男がいる。しかし旅行へ行く前、心不全で死んでしまう。彼は五年前に妻に先立たれていて、死んだら自分も妻のもとへ行くのかと思っていたが、幽霊になって現世にとどまることになってしまう。つまり主人公は幽霊なのだ。でも、どこか俗的である。男は、幽霊であっても現世にとどまったならば、旅行に行けるかもしれないと、電車などに乗ってみるが、乗り物、機械類はすべて体をすり抜けてしまう。せっかく交通費が無料になると思ったのに、それも叶わない。幽霊になったものの、生前、徒歩で行ける範囲しか浮遊できない。そこで気晴らしに女風呂を覗きに行こうと思う。実際に二、三回行ってみた。だが銭湯には若い娘がいなくて、自分と同い年か婆さんばかりだった。

 男ならば誰しも、透明人間(ここでは幽霊であるが)になったら、女風呂に行くと絶対に考えたことがあるはずだ。しかし銭湯が駄目ならば、「健康ランドとかスパとかに行けばいいんじゃないのか」とわたしは思った。なんせ彼には、全人類の男の希望が託されている、もどかしくも思った。すると男は「わかった、スーパー銭湯に行けばいいんだ!」と叫んでくれた。しかし、そのように叫ぶと、近くにいた男の耳の中に吸い込まれ同一化して、その人の目線で世界を見ることになる。つまり人間という乗り物に乗って、他人の生活を覗きっぱなしの状態になった。これはこれで面白いかもしれないが、いつまでも同じ人間だとおもしろくない。以降「スーパー銭湯に行けばいいんだ!」という言葉を発するたびに、他の人に入れ替わっていく、それから、いろいろあって、ブラジル人の体に入り、リオに渡り、オリンピックまで経験、あれやこれやで、生前希望していたアイルランドまで向かうことになる。

 以前、知り合いのおじさんが「死後の世界はどうなってる?」と唐突に質問したことがあった、するともう一人のおっさんが「三秒くらいじゃねえの」と言った。そのときは、わたしも三秒くらいでいいと思った。しかし、これを読んでから、死んだら浮遊して一年くらい旅をしたいと思った。そしてスーパー銭湯に行くだろう。

 ところで、死んでからの兇状でも、地獄に落ちるのだろうか、本書には「地獄」という短編がある。しかし津村さんの描く地獄は、一般の人が想像する地獄とは違う。そこは現実をスライドさせたようなところで、鬼も鼻毛が出てたりする。わたしは覗き地獄に連行されるだろう。

「うどん屋のジェンダー、またはコルネさん」も面白かった。人間はいい加減だけど、そのいい加減さに腹を立て、最終的に爆発する人がいる。わたしの場合、爆発させる側の人間で、何度も他人にキレられたことがあるので、これから先、気をつけようと思った。

「運命」と「個性」という短編は、これまた日常がスライドして、いろいろズレて行く感じだ。どこか変なのだが、津村さんの文章は、これ見よがしなところがないから、読んでいて心地いい。

 このような感じで、おっさん、幽霊、ちょっと変わった人などが登場する短編の中で、ビシッと女の怖さというか、したたかさが描かれているのが「アイトール・ベラスコの新しい妻」である。小学生のころ鈍臭くていじめられてた女子と、クラスの中心にいた意地の悪い女子、いじめられていた娘は成長して、アルゼンチンで脚本家になり、さらに女優になり、そしてサッカー選手と結婚することになる。紆余曲折あったものの、結果、人生を謳歌している。一方で、いじめていた側は家族の問題を抱えている。

 幸せもあれば不幸もある、地獄も天国もある、生きてる人もいれば死んでる人もいる。本書を読んで、これらすべてが地続きの感じがした。なぜだか、世界平和ってどうすれば訪れるのだろうかと考えてしまった。そこで思った、江戸時代のように男女混浴にすればいいのではないかと。すべての男は女風呂を覗きたい願望がある。それを拗(こじ)らせて、世の中はややこしくなっているのではないか、男のエロが世を面倒にしているのならば、すべてあけっぴろげにすれば、平和が訪れるのかもしれない。でも、こんなこと考えてるわたしは地獄行きです。話がそれました。とにかく本書『浮遊霊ブラジル』は、珍妙な日常を覗いた幽霊が書いたようなのである。決して津村さんが幽霊みたいだというわけではありません。津村さんと対談したのは五年くらい前でしょうか、とても楽しかった、ジュディ・シルの話をしましたね。考えてみれば、ジュディ・シルも幽霊みたいな人でしたね。お元気ですか、今後も楽しい小説読ませてください。

新潮社 新潮
2017年2月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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