『私のつづりかた』
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戦争間近でもキラキラした少年の日々におどろく
[レビュアー] 渡邊十絲子(詩人)
子ども時代の記憶は鮮明だ。宝物にしていたビー玉の色だとか、宿題が終わらなくて思わず鉛筆のお尻につけた歯型だとか。そういう断片的な記憶はだれにでもあるが、約八〇年の歳月を超えて、自分が書いた絵やつづりかた(今ふうに言えば「作文」ですね)を保存している人はまれだろう。著者はそのひとり。
一九二七年生まれ、銀座育ち。つづりかたの頃は小学校二年生で、この一年間に書いた一六の作文が収録され、八〇年後の目でそれらを読んだ感想が述べられている。
一読しておどろくのはのんびりした平和な空気だ。太平洋戦争まではあと数年。国語の教科書も「ハナ、ハト、マメ、マス」から「ススメ、ススメ、ヘイタイ、ススメ」に変わった。こういう時代、軍国主義にまっさきに染まるのは少年だと思われるのに、そんな雰囲気はうすい。よそゆきに着替えてデパートに連れていってもらったり、烏森神社の大祭でいつになく豪遊(金魚すくいを三回も!)したり、弟が生まれ(自宅出産だ)興奮して眠れなくなったり。描かれているのはキラキラと輝く、子どもらしい日常世界なのである。
少年にとっては戦争イコール英雄物語だった。二国間で戦争をすることになったら互いに満州に出かけていって、そこでドンパチやるものだと思っていた。つまり満州とは「戦争用の原っぱ」だと思っていたという。戦争がわが身にせまり、暗くてつらいイメージへと変わっていくのは、まだまだ先のこと。
わたしが心うたれたのは、少年が書いた「タイクツ」の風景だ。畳に寝転んでいても外へ行ってもひたすらつまらなく思えてじたばたするような日が、なぜか書きとめられた。八〇年ののちには存在の不安と名づけるような複雑な感情を、子どもはただ「ツマラナイ」という一語でつなぎとめる。いつの時代も変わらない。子ども時代って、おそろしく普遍的なものなのだと思う。