『異邦人』
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【文庫双六】カミュが描く心地よい「浮き身」――野崎歓
[レビュアー] 野崎歓(仏文学者・東京大学教授)
僕はすぐそばに浜辺がある町で育ち、夏になれば海で泳ぐ機会も多かった。とはいえ「ダイヴ」は大の苦手で、そもそも水泳自体、少しも上達しないまま今日に至っている。得意なのはもっぱら「浮き身」である。
少し沖に出て、ぷかりぷかりと波間で漂っている。視線の先にはただ、青い夏空が広がるばかり。全身を海と空にあずけるような感覚が好きだった。
そうした心地よさが、カミュの小説には鮮やかに描き込まれている。疫病との戦いの物語である『ペスト』で、疲れ果てた医師らが夜の海で黙々と泳ぐ場面の美しさは忘れがたい。海に抱かれて、彼らは生きていく力をよみがえらせる。
そして『異邦人』こそは、海水浴小説の傑作といっていい。主人公ムルソーは作中で都合3度、海に泳ぎに行く。塩からい水を口にふくんで勢いよく吐き出したりして、ガールフレンドのマリイとたわむれるうち、やがて二人の体は波間でしっぽりと絡まりあう。「マリイはその唇を私の唇に押しあてた。マリイの舌が、私の唇をさわやかにした」。
母親の葬式の直後にそうやって女の子といちゃついていたというのが、後に裁判で検察側がムルソーを責める一つの論拠となる。だが、生命の源である海に身を浸すことで、彼は母の逝去という悲劇を否定し、死にあらがおうとしたのではないか。そもそも海と母はフランス語では同音(どちらもメール)なのだ。
ところで、授業で学生と一緒に原文と窪田啓作訳を突きあわせて検討したときのこと。「沖に出て、われわれは浮き身をした」。これがわからないという。「浮き身」などという表現は聞いたことがないと異口同音にいうのだ。しかしこればかりは、他に言い換えようがないのではないか。
実はこの小説の新訳をもくろんでいて、訳文自体は数年前に仕上げた。ところが版権問題で当分出せないことが判明。わがエトランジェは沖で「浮き身」中なのだと思うことにしている。