【文庫双六】戦後、東京の住宅地にもライオンがいた――川本三郎

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新装版 眠る盃

『新装版 眠る盃』

著者
向田 邦子 [著]
出版社
講談社
ジャンル
文学/日本文学、評論、随筆、その他
ISBN
9784062932950
発売日
2016/01/15
価格
691円(税込)

書籍情報:版元ドットコム

【文庫双六】戦後、東京の住宅地にもライオンがいた――川本三郎

[レビュアー] 川本三郎(評論家)

 乱歩の『黄金豹』は、銀座に金色の豹が現われ、宝石店からダイヤや真珠を奪うところから始まる。

 明智小五郎と小林少年が活躍する少年探偵団シリーズの一作。昭和三十一年に発表されたが、乱歩は戦前の東京で起きた二つの事件を元にしたのではないか。

 ひとつは昭和八年、銀座の貴金属店、天賞堂から金塊が盗まれた事件。

 もうひとつは昭和十一年の黒豹脱走事件。上野動物園に飼われていたタイ産の豹が逃げ出した。半日後、上野の暗渠で発見されたが、一時、帝都は騒然とした。

 乱歩は『黄金豹』を書くに当って、この二つの事件に想を得たに違いない。

 東京に猛獣が住む。

 戦前の銀座の松坂屋デパートの屋上には小動物園があり、そこにライオンが飼われていた。夜、銀座の大通りでライオンの吠える声が聞えたという。怖い。

 戦後の東京の住宅地にもライオンがいた。

 向田邦子が随筆「中野のライオン」(『眠る盃』)で書いている。

 昭和三十年代、若き日の向田邦子は杉並区に住んでいた。都心の出版社への出勤に中央線に乗る。

 ある夏の夕方、下りの電車のなかから不思議な光景を見た。中野駅と高円寺駅のあいだ。電車の右側。

 窓から外を見ると、アパートの一室に一人の男と、そして隣になんと大きなライオンがいる!

 確かに見たのだが、無論にわかには信じられない。錯覚だったか。

 後年、もの書きになった向田邦子は「別冊小説新潮」(一九七九年春季号)にこのことを書いた。

 二十年ほど前、中野のアパートにライオンがいるのを見た。誰も信じてくれない。飼っていた人が現われないかなと夢見ている、と。

 なんとその、夢が実現した。ライオンの飼主から電話があった。喜んで会った。

 その男性は本当に百獣の王を飼っていた。大きくなって結局は動物園に託したが。人の心がまだのどかだった頃の話である。

新潮社 週刊新潮
2017年10月19日号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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