『新装版 眠る盃』
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【文庫双六】戦後、東京の住宅地にもライオンがいた――川本三郎
[レビュアー] 川本三郎(評論家)
乱歩の『黄金豹』は、銀座に金色の豹が現われ、宝石店からダイヤや真珠を奪うところから始まる。
明智小五郎と小林少年が活躍する少年探偵団シリーズの一作。昭和三十一年に発表されたが、乱歩は戦前の東京で起きた二つの事件を元にしたのではないか。
ひとつは昭和八年、銀座の貴金属店、天賞堂から金塊が盗まれた事件。
もうひとつは昭和十一年の黒豹脱走事件。上野動物園に飼われていたタイ産の豹が逃げ出した。半日後、上野の暗渠で発見されたが、一時、帝都は騒然とした。
乱歩は『黄金豹』を書くに当って、この二つの事件に想を得たに違いない。
東京に猛獣が住む。
戦前の銀座の松坂屋デパートの屋上には小動物園があり、そこにライオンが飼われていた。夜、銀座の大通りでライオンの吠える声が聞えたという。怖い。
戦後の東京の住宅地にもライオンがいた。
向田邦子が随筆「中野のライオン」(『眠る盃』)で書いている。
昭和三十年代、若き日の向田邦子は杉並区に住んでいた。都心の出版社への出勤に中央線に乗る。
ある夏の夕方、下りの電車のなかから不思議な光景を見た。中野駅と高円寺駅のあいだ。電車の右側。
窓から外を見ると、アパートの一室に一人の男と、そして隣になんと大きなライオンがいる!
確かに見たのだが、無論にわかには信じられない。錯覚だったか。
後年、もの書きになった向田邦子は「別冊小説新潮」(一九七九年春季号)にこのことを書いた。
二十年ほど前、中野のアパートにライオンがいるのを見た。誰も信じてくれない。飼っていた人が現われないかなと夢見ている、と。
なんとその、夢が実現した。ライオンの飼主から電話があった。喜んで会った。
その男性は本当に百獣の王を飼っていた。大きくなって結局は動物園に託したが。人の心がまだのどかだった頃の話である。