宮部みゆき エッセイ「一枚の絵のなかに」―作家生活30周年記念・秘蔵原稿公開

レビュー

1
  • このエントリーをはてなブックマークに追加

江戸切絵図貼交屏風

『江戸切絵図貼交屏風』

著者
辻 邦生 [著]
出版社
文芸春秋
ISBN
9784167409036
価格
503円(税込)

書籍情報:版元ドットコム

一枚の絵のなかに

[レビュアー] 宮部みゆき(作家)

最新時代長編『この世の春』を上梓された宮部みゆきさんが、時代小説を書いてゆくときの、楽しく苦しい“あること”を告白した秘蔵エッセイです。

 ***

 歴史・時代小説を書いてゆくとき、楽しくもあり苦しくもあることのひとつに、〈古地図との闘い〉があります。自分が描こうとする小説世界を載せてくれる土地のことですから、可能なかぎり正確に、美しく、見せ場多く描ききりたい。そう思いながら、畳のうえ一面に広げたり手近の壁に貼ったりして、上から見たり下から見たり、拡大鏡を持ってきてみたり、物差しをあてて距離をはかってみたり、はたまた現在のその土地の地図と引き比べてみたり。

 ところが、ここに、そんな努力などしなくても、ただ面白く楽しく読み進むだけで、江戸の町の地形や景色、主立った生業から人の往来まで、目の当たりにみせてくれる、美しい小説があります――という口上でご紹介するのが、この『江戸切絵図貼交屏風』です。九編からなる連作短編集ですが、一話ごとに、主人公歌川貞芳の手になる浮世絵の題がつけられており、そこに描かれている江戸の町で、その絵の像主(モデル)となった女性たちの身に起こった出来事、事件、運命を描いてゆく――という凝ったつくりになっています。一篇ごとに、そこに登場する女性たちの個性に従って、ある作品は上質の和菓子のよう、ある作品はきりりとした冷酒のようと、それぞれ異なった味わいも深く、一読忘れ難い印象を残します。たとえば、第三話『湯島妻恋坂心中異聞』に登場する「お滝」。ひとめ見ただけで貞芳に「この世に執着のない、暗い、諦めに似たかげりのようなもの」を感じさせたという彼女の姿あってこそ、このエピソードは成り立っているのですし、またそういう女性だからこそ、大詰めの場面で、秋山をして「先生に……見せたかったですね」と言わしめるような美しい顔をあらわすことができたのです。この第三話の幕切れは、ミステリ言葉でいうところの「最後の一撃」にも似た鮮やかなもので、読み終えたあともしばらく、目のなかに「お滝」の顔、崩れた髪の格好が残っているような気がしたものでした。また、続く第四話は、ある事件で、殺した女と殺された女の両方が、貞芳の描いた絵を持っていた――という発端から始まりますが、全編を通して存在するこうしたミステリ的な興味、謎解きの面白さも、読み所のひとつと言えましょう。

 刀を捨てて浮世絵師になりながらも、自分のなかに根深く残っている武家社会のしっぽを、作品を一つ一つ仕上げてゆくことで切り放してゆこうとする主人公の歌川貞芳をはじめ、彼の知己で何かにつけて頼もしいところを見せてくれる旗本の赤木半蔵、慈顔の下に鋭い頭脳を隠した与力の秋山治右衛門など、登場する面々も、あたかも作者の描く江戸の切絵図の上に陽を浴びて影を落としているかのように、輪郭もくっきりと、魅力に溢れ、どこをとっても贅沢な作品集だと思います。

新潮社 波
1992年10月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

  • このエントリーをはてなブックマークに追加