堂場瞬一はあくまでも日常生活を丁寧に扱い、ユーモアと皮肉を忘れない。 『絶望の歌を唄え』解説

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絶望の歌を唄え

『絶望の歌を唄え』

著者
堂場 瞬一 [著]
出版社
角川春樹事務所
ジャンル
文学/日本文学、小説・物語
ISBN
9784758413169
発売日
2017/12/15
価格
1,760円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

堂場瞬一はあくまでも日常生活を丁寧に扱い、ユーモアと皮肉を忘れない。

[レビュアー] 池上冬樹(文芸評論家)

 名作や古典にインスパイアされた小説はたくさんある。山本周五郎の『五瓣の椿』はコーネル・ウールリッチの『黒衣の花嫁』の時代小説版だし、国産ハードボイルドの名作、結城昌治の『暗い落日』はロス・マクドナルドの名作『ウィチャリー家の女』のトリックに納得がいかなくて作り上げたものだし、ポプラ文庫の解説で詳述したが、佐々木譲の『夜を急ぐ者よ』の根底にあるのは映画『カサブランカ』だろう。

 では、堂場瞬一の新作『絶望の歌を唄え』はどうだろうか。まずは、ストーリーを紹介しよう。

 東南アジアの某国で軍事政権と反政府軍の十年に及ぶ内戦が終了し、新大統領と国会議員を選ぶ普通選挙が行われることになった。国連が選挙監視委員会を派遣することになり、日本からは、選挙監視要員として、警視庁公安部外事三課の安宅真が選ばれた。警察官として十年近いキャリアがあったが、任地での生活はきつく、ジャーナリストの田澤直人と話をする時だけ気がまぎれた。二人とも一九七〇年代のロック音楽が好きで、海賊盤蒐集を趣味にしていた。

 その日も最近入手した海賊盤の話になり、ホテルで数時間後に聴くことになっていたが、それはかなわなかった。トラックを使った爆弾テロにあい、安宅は病院に収容される。田澤もまたテロの被害にあったのか行方がわからなくなる。

 十年後、安宅は、神田神保町で喫茶店を開いていた。退職後にコーヒー店を開くのが夢だった彼は、テロの後遺症からすっぱり警察をやめた。客にコーヒーをだし、好きな七〇年代ロックを流す日々だったが、ある日、爆弾を積んだトラックが近隣のビル店舗につっこむ事件が起きる。数日後、世界的なテロリスト集団「聖戦の兵士」が犯行声明をだす。

 このあとに安宅(小説では一人称の「私」)は殺人事件に遭遇し、また第二のテロも起きて、元警察官として事件を追及していくことになる。ハードボイルド・タッチのシリアスな物語を想像されるかもしれないが、むしろ逆である。堂場瞬一はあくまでも日常生活を丁寧に扱い、ユーモアと皮肉を忘れない。

 ストーリー紹介でもわかる人にはわかるだろうが、冒頭で男同士の友情が語られ、男が死んだ(もしくは行方不明になった)話が展開していくといったら、レイモンド・チャンドラーの『ロング・グッドバイ』(『長いお別れ』)である。ジェイムズ・クラムリーの『さらば甘き口づけ』、矢作俊彦の『THE WRONG GOOD-BYE ロング・グッドバイ』などの名作はチャンドラーへのオマージュであるが、堂場瞬一はほんの少し設定を借りて現代ミステリに仕立て直した。これがいい。

 作家なら誰もが名作に対する挑戦を夢見るだろうが、大事なのはそれをどのように行うかである。現代を舞台にしていかに男の友情と断絶を描くのか。作者はテロを通してだろうと考える。世界各地で起きているテロ行為が日本で起きない保証はなく、いつかかならず日本で起きるに違いない。それをシリアスなスパイ・謀略・情報小説としてではなく、あくまでも一人の男の平穏な人生の中で捉えようとする。テロとの戦いを対岸の火事として眺めている日本人を覚醒させ、社会・経済を狂わせるような大がかりな事件ではなく、日常生活を脅かすものとする。

 その狙いは悪くはない。大学教授が盗まれたギターの行方を追う『夏の雷音』もそうだったが、神田界隈を舞台にすると作者の筆は実に愉しげに乗る。神田の街で生活を送る人々の人間模様を点綴しながら、安宅は美味しいコーヒーを求め、不登校の姪ッ子の世話を焼き、七〇年代の音楽に浸りきる。とくにこの音楽の洪水が魅力的だ。レイナード・スキナード、ウィッシュボーン・アッシュ、ヴァン・モリスン、クイーンほか多数のミュージシャンの音楽が分析され、場面を彩るのである。さながら音楽小説の按配で、これほど洋楽を詳しく小説に持ち込んだ作品は珍しいだろう。

 しかも注目すべきは、懐古趣味としてではなく、時代を超えた作品としてとりあげていることだ。スキナードの「フリーバード」で始まった小説は、アッシュの「剣を捨てろ」で終わる。自由を謳歌した時代は過ぎ去り、テロの危機にさらされ、たとえ戦いが一時的に終わっても“敗者も勝者もいない”時代に生きていることを告げている。

 北方謙三ならもっと波乱にみちた劇的な冒険小説に仕上げただろう。大沢在昌ならもっと場面と文章をそいだハードボイルド小説に仕立てただろう。しかし、堂場瞬一はあくまでも日常の哀歓の中でのサスペンスにして、戦いに傷つき、戸惑う人に寄り添う小説にした。これは決して事件やテーマの卑小化ではなく、大きな物語(大上段に構えたテーマ主義の物語)がリアリティを失った現代において最も有効なアプローチであるからだ。チャンドラーの名作をこだまさせながら、テロの時代にあって自らの信義に生きることの意味をうちだしている点も興味深い。

角川春樹事務所 ランティエ
2018年2月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

角川春樹事務所

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