GDPと民主主義と〈私〉――『大人のための社会科――未来を語るために』刊行記念トークイベント(抄録)

対談・鼎談

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大人のための社会科

『大人のための社会科』

著者
井手 英策 [著]/宇野 重規 [著]/坂井 豊貴 [著]
出版社
有斐閣
ジャンル
社会科学/社会科学総記
ISBN
9784641149205
発売日
2017/08/30
価格
1,620円(税込)

書籍情報:版元ドットコム

GDPと民主主義と〈私〉――『大人のための社会科――未来を語るために』刊行記念トークイベント(抄録)

[文] 有斐閣

 本イベントは2017年10月13日、第48回衆議院議員総選挙(2017年10月10日公示、10月22日投票)の直前に開催されました(編集部)。

政党って必要なの?

坂井 今回のこのイベントは、『大人のための社会科』出版記念のものです。僕がこの本を作成する前後で何が一番変わったかというと、政党についての認識なんです。この本を書く前は、政党なんていらないんじゃないかと思っていました。でも一緒に本をつくっていく中で、宇野さんに教化されて、また僕なりに政治を観察するなかで、やはり政党はいると思うようになった。これは僕にとって本当に大きな変化なんです。今日はですね、「教えて宇野さん」。質問を用意してきました。宇野さんに挑戦するのではなく、謙虚に伺いたいと思います。で、1つめの質問ですが、「政党って大事なの? なんで?」。

宇野 十分、挑戦的な質問です(笑)。

坂井 2つめの質問。宇野さんのご専門の1つがトクヴィルです。18世紀にアメリカを訪れたトクヴィルは、人々がいろんな社会問題の解決のために集まることに目を付けました。トクヴィルは人々が組織をつくり、それをうまく活用することに深く感心します。政党が必要だというのはこれと関係するんでしょうか。
 3つめは、今の「希望の党」をどう考えたらいいのか。僕は希望の党を、どう自分の心の中で位置づけて、整理すればよいのかわかりません。宇野さんに助けていただきたい、というのが最後のクエスチョンです。
 僕はこの本を書き始める前というのは、政党っていらない……とまでは言わないけど、いらないんじゃね? と思ってたんです。それはまったく根拠がないことではないんです。僕の専門の1つが多数決で、多数決の正しい使い方というものに関心がある。多数決を議論の軸に置くならば、そして多数決の正しい使い方にこだわるならば、実は政党の存在はあまり好ましくないんです。少なくとも多数決をする場での党議拘束は絶対ダメと言いたくなる。
その根拠は何かというと、コンドルセ陪審定理です。
 とはいえなんですが、僕は多数決にこだわりすぎているんです。多数決というのは、民主制の中の要素のごく一部にすぎないのではないか。実際に政党というのはさまざまな役割があるのであろうと。
 そもそもなんですけど、多数決にかけるためにはなんらかの案が必要ですよね。となると、その案についての政治的課題を発見すること、またその課題に対して解決法を考えること、世のなかの人々にそれらをアナウンスすること、等々が前段階で必要なわけです。そうしてようやく多数決にかけるための案ができる。
 そういうことをするのは大変ですよね。やることがいろいろあるし、到底一人の人間の手には負えない。また、バラバラの個人たちだけでも難しいでしょう。大きなことをするためには、ひとまとまりの集団、有機的な組織が必要です。要するに政党というものが、いるのであろうと。

政党と企業は似ている

坂井 僕自身は経済学者なんです。ここであらためて指摘してみたいんですけど、政治における政党と経済における企業は非常に似ていると思います。
 というのは、政党は政治的課題を発見する。同様に企業は消費者の課題を発見する。たとえばこういう生活上の不便がある、と発見する。それに対して、商品を開発して、この製品を使うと暮らしがもっと便利になりますよ、といった形で商品開発をする。そして課題を発見して商品開発をするだけではダメで、商品を流通させなければならない。というふうに、経済における企業と政治における政党は実は非常に似たものがあるのではないだろうか。もし政党が企業と類似しており、また企業並に政党というものが重要ならば、やはり企業並に適度なガバナンスというものは求めねばならないんだろうと思います。

 さて、多少、「組織の経済学」の話に持っていくんですけど。経済学では、実は市場と組織というものを非常に対照的に扱うんです。市場っていうのは、バラバラの消費者たちとか生産者たちというのが市場に集まって、そこで金銭売買をします。そして消費者や生産者が結ぶ関係は非常に一時的です。一方で組織、企業はそうではない。目標を共有するひとまとまりの集団です。組織の中では金銭売買は基本的にはしません。というわけで、市場と組織というのは非常に対照的なんです。
 そして僕は政治において政党は、市場じゃなくてもちろん組織のほうに該当すると思っていたら……。市場みたいな政党(希望の党)が現れたんです。これは本当にびっくりしました。
 せっかく俺が政党の重要性を認めたのに、組織を目指していないようなものが現れてしまった!
 候補者が希望の党から立候補するときには、政党に何百万円もの上納金のようなものを納めなければならないようです。これではまるで公認を買っているみたいです。また、僕はこっちのほうが驚いたんですが、候補者が党首とツーショット写真を撮るのに3万円かかる。これは当選確率を上げるためのオプションとして、ツーショット写真を別売りしているみたいです。
 これはやはり、組織ではないんですよね。組織であれば、目標というのは共有しているはずなんです。仲間の候補の当選確率を上げるのは、共有された目標なので、党首はもちろん写真をタダで撮るはずです。ところが希望の党はそうなっていない。
 この一連の出来事を見ていると、どうすれば、市場ではなくて、組織である政党を地道に育成できるのだろうか、と悩ましくなります。一体僕たちはどうしたらいいんだろうと思っています。宇野さんはどうお考えになりますか。

政治学者と経済学者の感覚:一般意志、無知のヴェール

宇野 今、坂井さんは難しい問題をたくさん指摘されました。最初にお話になって非常におもしろいと思ったのは、政党ってそもそもいるんですか?というご質問です。基本的に坂井さんの発想からすれば、陪審定理が重要ですね。これは何かというと、一人ひとりの判断は必ずしも正しいとは限らないんですが、仮にそれが平均してコイントスをして決めるよりは賢いとすれば、そこに参加する人の数が増えてくるにつれて、全体としての判断の精度もだんだん上がってくるという話ですよね。つまり、一人ひとりが絶対正しいかといえば疑問だけど、なるべく多くの人が参加していくと、より良い判断が可能になる。これは民主主義を正当化する1つの論拠となると思います。
 そこまではいいと思うんです。けれども、そこからさらに坂井さんは言うわけです。ただし条件がある、と。それは、それぞれの人が途中で談合してはいけないということです。途中でボスがいたり、派閥があったりするとダメ。一人ひとりの人がきちんと一人で判断をしていれば、個別には間違ってているとしても、全体としてはだんだん確率的には良くなってくるはずです。ところが途中にボスがいて「おい、おまえも言うとおりにしておけよな。Aだぞ」「はい、オッケーです」ということで、みんなで「A」としてしまうと、答えとしては間違ってしまう。要するに、途中にコミュニケーションが介在するとうまくないだろう、そういう話ですよね。

坂井 その通りです。

宇野 これは、実を言うと政治学者と経済学者が一番揉める点なんです。起源をさかのぼると、ルソーの読み方にもつながってきます。ルソーの『社会契約論』において、一般意志の議論が出てくるんですが、どうすれば一般意志がわかるかといえば、お互いの間でコミュニケーションを取らないで考えれば一般意志が出てくるというんですよね。とはいえ、政治学者が民主主義を論じる場合、普通みんなで話し合うことを前提とします。お互いに話し合って、コミュニケーションを取って、一つの議論をまとめていくことが想定されるのです。ところが、ルソーはお互いにコミュニケーションを取らずに、一人ひとりがきちんと考えていけば一般意志になるという。これは困るんですよね。岩波文庫とか読むと、翻訳者もすごく困っているんです。民主主義の理論家であるルソーがお互いにコミュニケーションを取らないなんて言うはずがないというので、派閥をつくらないとか、必死になって意訳しているんです。話し合うのはいいけれど、党派や派閥はつくってはいけない、と。しかし、あれは原文を文字通りに読めば、互いにコミュニケーションを取らずに、と読めますよね。

坂井 そうなります。

宇野 これは困るんですよ、政治学者としては。経済学者はそれでいいんですよ。一人ひとりが市場で価格を見て、よしこれを買おうと判断すればいい。一人ひとりの消費者が考えれば、それが全体として市場のメカニズムで調整されるわけです。けれども、政治学者にとって、お互いに話し合って、コミュニケーションを取って、その上で社会としての一つの共通意志をつくるからこそ政治なのであって、そのプロセスがないと困るわけです。そこで引っかかるわけですよね。

坂井 そうですね。

宇野 ロールズでも引っかかるんですよね。ロールズの『正義論』を読まれた方はご存じだと思うんですけど、あれもいきなり「無知のヴェール」というのが出てくるんですよね。このヴェールが降りてくると、人は自分が誰なのかわからなくなる。自分が男なのか女なのか、お金持ちか貧乏なのかもわからなくなって、その状態でお互いにコミュニケーションも取らずに、自分にとって何が納得できる社会のルールかを考える。そうすると、一つの正義の原則が出るというわけです。しかしこれも、政治学者からすると、少し無理のある設定ではないか、ということになります。さらに、ロールズの想定する人間は、お互いに嫉妬しないことになっています。しかし、それって変ではないでしょうか。普通、人間は嫉妬しますよね。他人と自分をどうしても比べてしまうのが人間です。

坂井 経済学者はわりとロールズを好きなんです。あれは、ロールズが経済学を好きだからじゃないのかなって思うことがあります。20世紀で一番偉い経済学者が誰かというと、ケネス・J・アローがあがると思います。ロールズは、アローとも非常に深い親交があって、経済モデルをかなり勉強しています。ロールズは、一部の議論において、経済学のモデルを使っているようなところがあると思います。

宇野 そうなんですよ。ロールズのモデルだと、基本的にみんながそれぞれ考えていけば、あたかも経済学的な均衡のように、ある種の正義のルールにみんな同意できるって話になります。そこに僕は根源的な疑問があると思うんです。つまり僕ら政治学者にしてみれば、はたしてみんなで同意できる一つの正義のルールを、それも相互の議論抜きに確定できるのか、とどうしても思ってしまうんです。

坂井 そこは感覚が違いまして、僕は無知のヴェールをかぶっているんだから、みんな同じ結論にいくだろうってわりとあっさり思っちゃうんですよね。

政治学者が思う、政党の重要性

宇野 なるほど。ここが一番おもしろい点だと思います。
 逆に政治学者はなんで政党とかにこだわるかというお話ですが、政治思想史においても、政党がすんなりと認められたわけではありません。考えてみれば、政党とは英語でなんていうでしょうか? partyですよね。「part」すなわち「部分」です。要するに部分利益ということです。ですから、本来は良くないもののはずです。政治とは本来、社会全体の公共の利益のためにやるものでしょう。それなのに、公然と部分利益を主張する連中ということで、ずっと政治思想の歴史で、政党は悪いものとされてきました。分派、派閥とほとんど同じものとみなされてきたのです。ところが途中から、「政党はいいものだ」と読み替えてきたのです。これはすごい転換でした。旺盛な理解力を持った日本の幕末の知識人たちも、西洋のものでも政党だけは理解できなかったと言うんですよね。何しろ、国の中心に特殊な利益を標榜する集団が集まって、公然と派閥行動をして、さらには公衆の面前でケンカするというのですから。西洋の国とは変なものだな、と思ったとしても不思議ではありません。それぐらい、本来は政党って変なものなのです。

坂井 なるほど。ということは僕がけっこう政党がわからなくても悪くないわけですね。

宇野 そう。僕らに言わせれば、政党がいいものだと考えるほうが、人類史的にいうと非常識だと思うんです。でも、われわれ政治学者に食い扶持があるとすれば、人類学的に非常識である政党を守って育ててきたからだとも言えます。まず、哲学者のデイビッド・ヒュームは、人間がどうしても派閥や党派をつくるとすれば、宗教的な党派よりは、利益による党派の方がマシだと主張します。
 あるいは、僕は大学院の演習で『ザ・フェデラリスト』というアメリカの政治思想の古典を読んだのですが、あの第10編、マディソンが書いているところでは、党派を正面から論じているんです。どういう理屈かといえば、人数が集まるとどうしても派閥ができるが、これは自由な人間の性である、と。だから派閥を全部なくして、みんなで公共のことを考えましょうと言っても難しい。それではどうするかというとき、今までずっと派閥はいけない、いけないと言っても実際にできてしまってズルズルきた。けれども、ここで発想転換しようとマディソンは言うわけです。派閥はよくないが、どうしたら派閥の弊害が小さくなるかといえば、派閥がたくさんできればいい。1つの派閥が全部牛耳ってるから悪いのであって、たくさんグループがあってお互いに競争してれば、多少はマシになるだろう。これはかなりクールな政党の擁護論です。
 これに対し、僕は去年『保守主義とは何か』という本を書いたんですけど、あの中に出てくるエドマンド・バークの政党擁護論は、もっと熱いです。彼はキケロの友情論を引っ張ってくるんですね。西洋政治思想史では、友情は長く論じられてきたテーマの1つです。政治権力による抑圧など、苦難のときに大切なのは友情である。古代ギリシアにおけるフィリアもそうだし、キケロなどローマにおいても同じです。『走れメロス』の話を思い出しても、あそこで主人公は約束のために走るんですよね。一生懸命一生懸命、帰っても処刑されるというのに、友達との約束があるといって走ってゆく。最後帰ってみんな仲良くなる話だけど、あれは友情を裏切りたくない、国家権力にいじめられても、仲間との約束は大切にしたいという話です。バークもまた、政党とは単なる派閥ではなくて、同志であり仲間であると主張します。この国をどうしたらいいかという志を共有した人間同士が組む、その団結があってこそ国家権力に弾圧されるときにがんばれるんだと。いい話でしょう。

坂井 いやあ、いい話ですね。

宇野 このように政党は大切だよと多くの政治思想家たちは一生懸命擁護してきたんですけれど、納得しません?

坂井 すごく納得度は高いんです。やっぱりそれはバラバラの個人たちではないわけですよね。ひとまとまりの組織である、集団であると。

宇野 つまり組織や集団、さらに派閥はどうしてもある。そうだとしたら、それを否定しないで、マシな方向に持っていくにはどうしたらいいかと考える。どうせ派閥があるなら、たくさんあるほうがいい。それも単なる徒党じゃなくて、一つの志を共有した集団でなければいけない。そういう集団だけを政党と呼ぶことにして、なるべくそういう組織を多くして、政党の質を上げようとがんばってたんですよ。この200年くらい。一生懸命に。現状がこうなっているのは認めますよ。でも政党は本来、単なる徒党じゃなくて、この国をどうしようかっていう志を同じくする者の集団であるという定義もあるわけです。

坂井 本来の定義を満たしていないが、政党と呼ばれている集団も世の中にはあるわけですね。

政党のイメージ

宇野 日本の政治改革についても、これにコミットした政治学者の多くは、発想は間違っていなかったと言うのです。問題は画竜点睛を欠いている点であり、それが政党法というわけです。政党交付金をあげるから、それをきちんと管理して、内部のガバナンスがしっかりとした政党をつくっていかないといけない。
 ところが、現実には、小選挙区制を中心とした制度ができた負の効果で、ともかく多数をつくろうと離合集散だけが起きている。今こそ政党をしっかりさせる必要があるというわけです。政治学者にすれば、200年の間、人類の非常識である政党政治を守り、発展させてきたのを捨ててはいけないことになります。政党を立て直していけば、まだまだいける。
 往生際が悪いと言われるかもしれませんけど、多くの政治学者はこう言っているんですね。ダメですかね。

坂井 どうなんですかね。選挙制度改革は1994年だったと思うんですけど、そこから今23年経って、なかなかうまく政党って育っていないように見えるんです。その23年というのは長いと見るのか、まだたった23年だって見るのか、どっちなんですかね。

宇野 政治学者にとってみれば、「たった」なのでしょうね。

坂井 やっぱりそうですよね。そうだと思います。
 やはりなんらかの政治体制を確立するのは、30年、50年、100年あって当たり前だと思います。

宇野 坂井さんがあげられた小池さんの政党ですが、この旗にみんな集まれというより、むしろ一種の店子商売ですよね。政策はあとから決めるから、とにかく来い、と。ここまでくると、僕らの感覚でいくともはや政党ではないと思うのですけどね。

坂井 こういうものが政党だ、というふうなイメージが流布すると、それはすごくよろしくないと思うんです。やっぱりちゃんとした政党って大事だよね、という意識自体がまだそんなに日本で広まっているようには思えないんです。その中で、こういう市場みたいな政党が現れると、政党のイメージそのものが変わってしまうんじゃないかという危惧が僕にはあります。経済モデルに出てくるエコノミック・エージェントばかりが政党をつくるとこうなるんだ、へえー、って僕は最近すごく思ってます。

宇野 今、だいぶ大学も変わってきましたよね。特にアメリカの大学なんかは、一種店子貸しですよね。大学の教授ポストを提供するから、有力な研究者に来てくださいというわけです。その場合も、金は出しません、自分でお金持ってきてくださいと言います。有力な教授が自分でお金をとって、プロジェクトをやるのだったら、教授のポストと研究室を貸す。有力な人を集められれば大学の評価も上がる。ダメだったら追い出す。このモデルですよね。

坂井 本当にその通りで、大学は大学のブランドを教授に貸し出すみたいな感じなんです。

宇野 そうすると小池さんのほうが世界先端モデルであって、僕みたいに政党は友情だとか共通の政策だとかいうほうが古臭いのかもしれない。

坂井 僕も宇野さんの言うような政党のほうが好きですけど、そうなんです。古くなってるのかもしれないですよね。

宇野 別に僕は、古典的な階級政党みたいなものを考えているわけではないのです。やはり20世紀の多くのヨーロッパやアメリカの二大政党制において、一方に労働者の政党があり、他方にはブルジョワの政党があり、両者がぶつかり合いながらも、ある種妥協しながら政治を動かしていく。このモデルでやってきたわけです。ところが、今は誰が労働者で、誰がブルジョワかもわからないし、貧しい労働者が労働者政党を支持するとも限らない。そういう時代だから、古典的な階級政党は難しいことは、僕も認めているんです。

選挙制度と政党

宇野 それでも、僕はやはり政党はまだ必要だと考えているんです。
 小選挙区制を中心にすると、どうしても政党の数は限られますよね。坂井さんがおっしゃるように、小選挙区制だとデュヴェルジェの法則が働く可能性が高いです。この法則によれば、小選挙区だと一人しか当選しないから、n+1だから政党制は2つになると予測されます。このデュヴェルジェの法則からすると、政党の数は必然的に収斂してくるから、どうしてもいろんな人たちが同じ政党に集まってしまいますよね。右の人もいれば左の人もいる。いろいろな立場の人が一緒にならざるをえない。純粋にまとまった政党はどうしてもつくりにくい。
 ただ、それでもいいのではないかと、僕は思っているのです。というのも、それがこの世の中の縮図だからです。皆さん考えていただきたいのですが、安全保障政策、経済政策、原発政策、環境政策、福祉や社会保障政策、全部自分とぴたりと合う政党なんてないですよね。
 世の中にはいろいろな矛盾した利害がありますが、政党はむしろそういう矛盾した利益を集めて、中できちんと議論をするための場なのです。これだけ矛盾があるけれど、同じ社会の一員であるためには、これとこれは妥協して、ここを組み合わせないといけない。これが一番大切な価値だからそのためにちょっと我慢してもらう必要がある。このような議論をする中で、政策に順番をつけ、妥協して組み合わせてパッケージをつくる。この作業は社会全体がしないといけないのだけれど、いざやれと言われたらできないですよね。だからこそ、政党がそういう作業をするための場所だったらいいなと思うんです。
 つまり、社会にどうしても矛盾する利害はある。それでも、きちんと自分たちは議論して、こういう結論を出しました、それを支持してくださいと政党がみんなに問いかける。「きちんと議論しましたよ」と互いに競争をするのが、僕は政党の役割だと思ってます。日常において、政治についてきちんと議論したいと思うけどなかなかできない。だとしたら、こんなに矛盾した利害があるけれど、それを結びつけ、こういう政策をパッケージにしましたというのを政党が見せて、それに対して、大きく言うとどっちがいいかという視点で有権者が選ぶ。僕はそういう政党のイメージで考えてるんですけど、どうでしょう。

坂井 僕もそういう政党がよいなあと思うんですけど、今回出てきた(希望の党の)パッケージがこんな感じなので。なかなかこれが……アメリカの大学とおっしゃっていたんですけど、そのモデルが政党についに適用されるようになって、宇野さんが先ほどおっしゃったような好ましい政党のモデルからはずいぶん離れた、目新しいものができたのかなあ、というように感じます。

宇野 昨今の政治状況を皆さんいろいろとお考えだと思います。昨日今日、世論調査によれば、与党が圧勝するという予測が出ています。ただ、かといって、内閣の支持率は低下傾向にあります。つまり現政権に対する批判はあるけれども、野党が分裂しているために、結局与党が勝ってしまう。なかなか、いわく言いがたい状況です。しかし先ほどのデュヴェルジェの法則を考えれば当たり前の話であって、野党は一本化しない限り、この選挙制度においては与党に勝ちっこないわけです。そうなると、分裂した野党が悪いってことになりますよね、やっぱり。

坂井 僕はそこで野党が悪いとは言いたくないんですけれど、ただあえて悪いと言うならば、やっぱり選挙制度のほうを悪いと言いたいんですね。

宇野 そうも言えますね。ただ、この選挙制度を前提とする限り、野党のほうが非合理的な行動を取ったことになります。

坂井 そのように言うこともできると思います。

宇野 今回、野党が結集しない限り、絶対に与党に対抗できなかった。だったら野党はもっと結集するべきだったということは言えると思うんですけれど、そういう意味では前原さんがやったことは、合理的な行動だったということになります。が、その結果がどうだったかといえば野党の分裂を加速したわけですよね。

坂井 そうですね、ここまで三極化になるとは思わなかったです。

宇野 それを見ると、ああ野党結集に失敗してバカげていると思う反面、心のどこかで良かったなと思うところもあるんです。

坂井 良かったところ?

宇野 つまり、民主党(民進党)はずっと長いこと、いろいろなグループをまとめ上げようとして、結果的にむしろきちんと議論できなかったと思うのです。党内をまとめることを思うばかりにきちんと議論ができず、にもかかわらずあたかも一つの政党であると錯覚してきた。それが今回、ある意味ですっきりした。ただ、これで満足してほしくない。やはり、今まで自分たちが矛盾したもの同士の同床異夢だったということがわかったのであれば、あらためてきちんと議論を開始してほしい。本当の政党になるためには、自分たちの間に対立があることを認めた上で、それをどうやって埋め合わせるかを考えることが肝心です。その努力をこれまでしてこなかった。きちんと議論しないで、ごまかしてきた。裏を返せば与党もそうです。自民党の中にもいろいろな意見の人がいますが、その人たちが本当に自分たちの主張をぶつけ合って議論をしてるかというと、決してそうではない。

 だから野党もバラバラのままだったら無意味だけれど、もうちょっときちんと議論をしながら政党をもう1回つくり直していってほしい。僕は今回の混乱を通じて、与党も野党も、政党というものがもう1回自らをつくり直すきっかけにしてほしいと思ってるんですが、これまた甘いですかね。

坂井 どうでしょう。僕はやっぱり選挙制度というのが政党政治のあり方に非常に大きな影響を与えると基本的に考えています。デュヴェルジェの法則でいうと、小選挙区制、各選挙区で一人しか勝たないのであれば、二つの巨大政党ができやすい。二大政党ができやすい。
 ところが日本の場合は必ずしも小選挙区制が徹底してるわけじゃなくて、比例代表の部分も少なからずあるので、やっぱり二大政党化はしないんですよね。それなりにちっちゃい政党がいっぱいポツポツできては、結果的に巨大与党が得をするというふうになっていると思います。それから23年間、特に野党のほうは政党がつぶれてはできて、つぶれてはできてを繰り返してきたと思うんです。もしかすると、この今の日本の選挙制度は政党が育ちにくい選挙制度なのではないだろうか、という危惧が非常にあるんです。

宇野 おっしゃる通りだと思います。今の日本の選挙制度はよくできてない部分があります。大体、衆議院と参議院で役割やそれに見合った選挙制度がきちんと整理されていないし、さらに言うと地方の選挙制度はいまだに大選挙区制を取っている。世田谷区なんて、50人くらい当選するんでしょうか。そうするとどうしてもかなり個別的な利害によって政治家が選ばれます。今日の日本の選挙制度には整合性がないんです。その中で、今は野党にとってバラバラになるように機能してると思います。

坂井 そうなっています。

宇野 もっと野党を含め、政党にとってきちんとまとまれるような、整合性のあるような仕組みにしなければならない。そのために地方の選挙制度も変えないといけないし、衆議院と参議院の選挙制度も変えないといけない。それは認めます。その上でなお、やはり僕はきちんと政党に育ってほしい。

坂井 僕も育ってほしいというところまでは共通なんです。

宇野 ……が、その先の政党のイメージがやっぱり少しずつ違っている、ということなのかもしれませんね。

※フロアからの質問は省略します。
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書斎の窓
2018年3月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

有斐閣

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