「合気武術」の深奥に触れる 津本陽の遺作にして“力作”

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深淵の色は 佐川幸義伝

『深淵の色は 佐川幸義伝』

著者
津本陽 [著]
出版社
実業之日本社
ISBN
9784408537313
発売日
2018/10/05
価格
1,870円(税込)

「合気武術」の深奥に触れる 津本陽の遺作にして“力作”

[レビュアー] 東えりか(書評家・HONZ副代表)

 2018年5月26日、多くの武道小説を書き続けてきた津本陽が急逝した。本書はその遺作となった、合気の達人「佐川幸義」の評伝である。

 異色であると同時に大変な力作であるこの本は、武術の極意を小説で表そうとした小説家が実際に合気という神技の深奥に触れた感動が正直に語られていく。

 津本が大東流合気武術の祖である武田惣角の弟子であり、天才武術家として名を馳せていた85歳の佐川先生と初めて会ったのは昭和62年のことだ。『鬼の冠 武田惣角伝』(実業之日本社文庫)を書いた津本は実際の合気とはどのようなものであるか見たいと思い道場を訪ねた。その稽古の場で相手の体を全く掴まず、相手に掴ませたまま身をひねるだけで人を3メートルも5メートルも投げ飛ばす技に仰天する。

 門人となった津本は合気の神髄に触れて恐れをなし、伝記を書くことを一度は諦める。だがさらに多くの資料を託され期待を受けながら、佐川先生は95歳で亡くなってしまうのだ。

 没後20年経ち新たに書き上げる決意をしたのは、高弟である木村達雄氏からのある相談であった。筑波大学の数学の名誉教授である木村氏は最晩年まで佐川先生のもとに通い詰め一番身近にいた。木村氏が見聞きし、体験したことを拠りどころとして本書は綴られていく。

「人間は進化しなければ退化していく。同じところに停(とど)まることはない」と死の間際まで鍛錬を続けた佐川先生は熱心に稽古を重ねる木村氏に期待し「ボンクラ」と言いつつ技を伝授した。「合気とは不思議な力でなく理論である」と佐川先生は言う。その理論に魅せられ、多くの学者や識者、一流の武道家が佐川先生の弟子となった。

 津本には合気の深淵の色は見えなかったかもしれない。しかし不世出の名人の足跡を残すことはできたのだ。いま、共に泉下の客となった作家と武道家は、武術の極意について談笑しているのではないだろうか。

新潮社 週刊新潮
2018年11月29日号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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