茶色のまんじゅう――『信州・善光寺殺人事件』著者新刊エッセイ 梓林太郎

エッセイ

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信州・善光寺殺人事件

『信州・善光寺殺人事件』

著者
梓, 林太郎, 1933-
出版社
光文社
ISBN
9784334077402
価格
990円(税込)

書籍情報:openBD

茶色のまんじゅう

[レビュアー] 梓林太郎

 私の生まれは信州上郷(かみさと)村上黒田(かみくろだ)(現・飯田(いいだ)市上郷黒田)で、隣接は座光寺(ざこうじ)村。そこには元善光寺という寺がある。JR飯田線に元善光寺という駅もある。この度、小説に善光寺を書くにあたって、「長野市の善光寺の元祖なのか」と問い合わせた。すると、「善光寺という寺が長野市へ行って出世したという説もあるが、長野市の善光寺の元祖ではなく、元善光寺という独立した名の寺のようです」と、いささか曖昧な答えが返ってきた。

 いまもつづいているらしいが、近在の人びとがお参りする祭りが年に一度ある。元善光寺の参道にはさまざまな店が出現する。昔、そのなかにまんじゅうを売る店が一軒あった。蒸籠(せいろ)から湯気を立ちのぼらせているのは茶色のまんじゅうをふかしているのだった。中には黒い餡(あん)がつまっている。少年少女は、その店の前へ寄りかたまった。まんじゅうを買うのではない。買ってもらえないので、湯気の匂いを嗅ぐのだった。白い湯気はもうもうと立ちのぼっていた。わらべたちはその白い湯気を見上げ、鼻を動かしていた。

 私が育った家は農家で、特に貧しい暮らしではなかったと思う。が、茶色のまんじゅうはなかなか買ってもらえなかった。私は腹をすかして、ほかのわらべとともにまんじゅう屋の湯気の匂いを嗅いでいた。それを見かねたのか、母がそのまんじゅうを一つ買ってくれたことがある。母もまんじゅうを食べたかったにちがいない。買ってもらったまんじゅうを私は胸に抱いた。何度も何度も匂いを嗅いだ。まんじゅうは次第に冷たくなったし、甘い匂いも薄くなった。

 先般、草津(くさつ)温泉へ行った。湯畑(ゆばたけ)の通りに蒸籠から白い湯気を上げている店があった。茶色のまんじゅうを一つ買って二つに割った。餡は黒く、昔と同じかたちをしていた。だが噴き上げている湯気には、なかなか買ってもらえなかったまんじゅうの、あの匂いはなかった。

光文社 小説宝石
2019年4月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

光文社

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