大作家と見る関門海峡――『小倉・関門海峡殺人事件』著者新刊エッセイ 梓林太郎

エッセイ

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小倉・関門海峡殺人事件

『小倉・関門海峡殺人事件』

著者
梓林太郎 [著]
出版社
光文社
ジャンル
文学/日本文学、小説・物語
ISBN
9784334077433
発売日
2020/04/22
価格
990円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

大作家と見る関門海峡

[レビュアー] 梓林太郎

 北九州小倉(きたきゆうしゆうこくら)のことを話したり書いたりすると、かならず松本清張(まつもとせいちよう)さんを思い出す。

 私は二十年のあいだ清張さんとは深いお付合いがあって、その間三度、旅行にお供した。

「講演に行くが、一緒にどうかね」と、誘ってくださった。三度のうちの一つが福岡。講演がすんで一泊したあと、清張さんの希望で小倉へ行くことになった。

 それよりずっと前に私は小倉を訪ねたことがあり、そのときの記憶を話したのだが、「市電(路面電車)に乗ったら、窓が鉄錆色(てつさびいろ)をしていて、外がよく見えなかった」といった。すると清張さんはうなずいて、「西のほうからの風が吹くと、錆の匂いがしたものだ」といわれた。

 清張さんが生まれ育ったところは、小倉の旦過市場(たんがいちば)の近くだったという。市場はせまい小路の両側に小さな商店がずらりと並んでいて、あまり明るくなかった。

 市場近くの紫川(むらさきがわ)の岸辺に立った。偉大な作家になっておられたが、やはり成長期を過ごした土地は懐かしく、かずかずの思い出が蘇るのか、草を踏んで、ゆるやかな流れと橋をしばらく眺めていた。

 そのあと門司(もじ)へ移り、港を左目に入れながら突端の和布刈(めかり)神社の鳥居をくぐって、海峡に顔を向けた。早鞆ノ瀬戸(はやとものせと)である。関門橋(かんもんきよう)がまたぐ対岸との幅は約七百メートルで、向こうは下関(しものせき)の壇之浦(だんのうら)だ。清張さんは幼いころもこの海峡を眺めたことがあったのか、石の柵をつかんで、一日のうちに海流が四度も変わるといわれる青い海を、見つめておられた。荷を積んだ鉄の船が、渦を巻いている波の逆らいをものともせずに滑っていった。船の行方でも見届けるように見送っていた清張さんは、その情景を記憶にとどめたかったのか、長いことそこを動かなかった。私は渦巻く海と低く飛ぶ海鳥よりも、その広い背中をじっと観察した。

光文社 小説宝石
2020年5月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

光文社

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