神と愛と日本を撃つ――お仕事小説であり結婚式小説 古谷田奈月『神前酔狂宴』

レビュー

  • シェア
  • ポスト
  • ブックマーク

神前酔狂宴

『神前酔狂宴』

著者
古谷田 奈月 [著]
出版社
河出書房新社
ジャンル
文学/日本文学、小説・物語
ISBN
9784309028088
発売日
2019/07/12
価格
1,760円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

かみのめ ひとのめ

[レビュアー] 池澤春菜(声優・作家・書評家)

 途中までずっとファンタジーだと思っていたのだ。その前に読んだ「望むのは」は、ゴリラやアライグマが普通に人と暮らしている世界のお話だったし、「リリース」は男女同権の世界を描いたSF的なお話だったから。
 だからきっと、これもきっとそのうち神様が出てきたり、不思議な世界に行ったり、異類婚姻譚的な展開になるのだろうと。
 全然違った。
 でも、違わなかった。
 最後まで読んでも、ファンタジーを読む時のゆらゆらと宙に浮くような酩酊感は消えなかった。ゆらゆらしているけれど、その中には触れれば切れる結晶のような何かがちりばめられている。実際、わたしの心は少し傷を負い、その痛みを読み終わったあともずっと抱えている。

 結婚式場を舞台にしたお仕事小説はきっと面白いだろう(誰かがもう書いていると思うけれど)。
 神と人、右と左、信条や建前や虚飾を描いた小説も、きっと面白いだろう。(これももうたくさんある)。
 でも、その両者が融合していて、どちらも一歩も引かず、現実を限りなく描きながら、まるで違うフィルターで世界を見せてしまう、これは古谷田さんにしか書けない小説だ。だから、古谷田さんの描く世界を、世界と向き合う姿勢を、わたしはとても信頼しているのだ。

 最初から最後まで、舞台となるのは神社の結婚式場、高堂会館。シチュエーションコメディのように、その披露宴会場からカメラはほとんど動かない。だけど神社という背景のせいか、不思議と向こう側を感じさせる。
 主人公の浜野は、脚本家志望、一応。にもかかわらず、書いたものを脚本として使って貰う気も、誰かに読んで貰うつもりもない。ただただ、ひたすら書いている。その生活を支えるための割の良いアルバイトとして始めた式場スタッフに、浜野はだんだんとのめり込んでく。滑稽で真剣、その二つを極めた時に浜野の目の前には新しい世界が開ける。
 おばあちゃん子で、見た目は怖そうだが熱血で心優しい梶。進取の気象に燃える倉地。先輩や後輩、浜野を取り巻く人々も個性豊かだ。ただ、新郎新婦にスポットライトが当たることはない。一件一件の結婚式を、人間模様を、オムニバス式に書くことはせず、あくまでそれは目の前を流れていく事象として描かれる。一件を除いて。
 一日に何度も、そして来る日も来る日も繰り返される「一世一代の大舞台」。人生の一大イベントに、式場スタッフたちは、その一瞬だけ誰よりも深く関わる。「伝統主義による女性差別と商業主義による男性差別、この二つをかけ合わせて粉飾した現代の婚礼」、確かにそう言ってしまうと身も蓋もない。
 わたし自身、今まで何度か披露宴に呼んでいただいたことがある(残念ながら自分の結婚式は、まだ)。毎回不思議に思うのだ。心に神を持たない人々は、誰に、何を誓うのだろうと。それを反映してか最近の結婚式は、列席者の前で誓う人前式という形を取ってはいる。でもそれを取り仕切るのは、不思議な抑揚の日本語を使う牧師、もしかしたらアルバイトかもしれない。知らない人たちの内輪受けの余興にスピーチ、流れるように進む完全なパターナリズムの式次第、個性を大事にと言われる時代に、誰もが一様に着る白いドレスとタキシード、普段着物に親しまない層が神妙な面持ちで身につける白無垢や色打ち掛け、紋付き袴、この時だけ振りかざされる問答無用の謎マナー!! 完全なる様式美だけど、でもその様式が依って立つ土台は、いろいろなもののパッチワーク。おめでたくて、でもなんだかおかしくて、面映ゆくて、ぽかんと狐につままれたような不思議な気持ちにいつもなる。
 両親の涙も、新郎新婦の真実の愛も、友人知人の感動も、式場スタッフは一日に何度も見ている。どんな気持ちなんだろう、と思っていたけれど、そうか、こんな気持ちなのか。
 その虚の中にある実、実の中にある虚に気づいてしまった浜野、そこから彼の夢の世界が幕を開ける。目覚めた浜野の疾走は、とてもユーモラスでシニカルで痛快だ。

 物語の展開はとても早い。時間は、三年、五年とざくざく進んでいく。その中で永遠のモラトリアムのような浜野も、変わりゆく周囲に巻き込まれ、否応なく変えられていく。派遣のカサギスタッフ、神社に所属する椚会館のスタッフ、両者の領地争い。変化や革新性を好む宮司と、伝統を重んじる神社。最初はただきゃっきゃと子犬のようにじゃれ合っていた浜野と梶の関係が、倉地の存在によってバランスを崩していく。
 描いていることはどこまでも生々しくて、浜野の葛藤も、梶の諦めも、倉地の歪みも、読む側の心をひりつかせる。なのに、どこか距離感のある、踏み込みすぎない超然とした筆致は、まるで水槽のガラスの向こうから世界を見ているようだ。温度感が違う。
 ふと思った。もしかして、これを見ているのは、神そのものなのではないか。タイトルの「神前酔狂宴」が示すように、神の前で繰り広げられる酔狂な宴を、神自身が社の奥から眺めているのではないだろうか。だから夢を見るように、うっとりとぼんやりと、熱狂は感じながらも余所事めいた視点で物語が進んでいく。
 でもその神にしたって、作られたものなのだ。ただの人だった椚萬蔵と高堂伊太郎が神に祭り上げられ、勝手に功徳を期待され、拝まれ、頼まれ、自らの名を旗頭に望みもしない覇権を争われる。目の前では見知らぬ人々の婚姻が怒濤のように流れていく。ひらひらと蝶のように翻る人々の思惑、降りることの叶わない終わらない茶番劇。それを唯々として見ているしかない神の目とは、斯くあるものなのかもしれない。

 今作は、一作ごとに切り口を変えていく古谷田奈月の小説の中でも、紛れもない傑作だと思う。同時に意欲作だ。ジェンダーやアイデンティティを取り上げた作品が多い中で、もう一歩踏み込んだその奥を描こうとしている。国や宗教といった生々しいものを扱いながら、けして生臭くならないのは古谷田さんだからこそ。
 しきたりというものの空虚さを、思想や信仰の虚々実々を、それに振り回される人々のおかしみと悲しみを、愛おしく、そして怜悧に描き出した美しい作品。

河出書房新社 文藝
2019年秋季号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

河出書房新社

  • シェア
  • ポスト
  • ブックマーク