『ののの』
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“自分にとっての合理性”という不可思議とリアルを繋ぐもの
[レビュアー] 伊藤氏貴(明治大学文学部准教授、文芸評論家)
装幀を見たとき、タイトルを「666」と読み間違えた。ヨハネの黙示録の獣の数字とはこれまた不穏な、と思って手に取ったが、実際読み進めると、また別の意味で不穏な作品だった。
「僕」の二歳上の兄が中学生だったときに不慮の事故で亡くなるところから話は始まる。その後、大雨の日に父が重機を盗んで堤防に向かい、そこで事故死を遂げる。この顛末はかなり衝撃的だが、こんなこともあるのだろうと実感させられる。
しかし、これはまだ不穏のはじまりにすぎない。少しずつ現実に軋みが生じ、作品全体が不穏に包まれる。
兄の葬儀が行われた場所のそばの国有地には白い本の山が野晒しになっており、そのてっぺんに、目がひらがなの「の」の形をした巨大な鳥がいて、「僕」はその鳥を「のの」と呼ぶ。そして、「のの」がいる白い本の山を「のののやま」と呼び、それがタイトルの由来となっている。一体これは現実の光景なのか。
またさらに、「僕」のところに頻繁に掛かってくるセールスの電話でのやりとりもなんとも不可思議だ。
現実を脱臼させていくこうした手法は珍しいものとは言えないが、本作の場合、この歪みをもたらすものは「記憶」の作用ではないか。「思い出になるのは、自分で思い出したことがあることだけだよ」という作中二度繰り返されるセリフがそれを示唆する。
誰にとっても人生とは自分の過去そのものではなく、それに関する記憶の集積である。大抵はどんなおかしなことも辻褄を合わせて物語が紡がれるが、それは自分にとっての合理性でしかない。他人からすれば不可思議なものであってもそれがリアルな人生なのだ。
次第にタイトルの「ののの」は「???」ではないかとも思えてくる不思議な作品だが、それでいてリアルな手触りを感じさせる。表題作の他二作を収めるが、いずれも作者の手腕を遺憾なく示し、不思議なリアリティを持った不穏さを漂わせる。