戦争と弾圧三・一五事件と特高課長・纐纈弥三(こうけつ・やぞう)の軌跡 纐纈厚著
[レビュアー] 太田昌国(評論家)
◆陰の人物の全生涯を通観
纐纈弥三という人物を知る人は少ないだろう。一九二〇年代後半、「三・一五」や「四・一六」の名で知られる共産党弾圧事件を指揮した、特別高等警察(いわゆる特高)課長だと記憶している極少の方は別として。
日本の近現代史における戦争と弾圧の闇を明かす作業を着実に続けてきた著者は、今回はあえてこの人物の全生涯を通観する仕事に取り組んだ。同郷(岐阜県中津川に近い)同姓のよしみもないではないだろうが、弥三の日記をはじめ、彼がのこした数多くの文書に触れる機会に恵まれたからである。
そこで明らかになったのは、特高、敗戦に伴う公職追放と解除、国会議員への転身、紀元節復活への執念など、戦前と戦後がひと続きとなって断絶していない、弥三の姿であった。
保守主義と国家主義が台頭する現在の日本の政治・社会状況に危機感を覚える著者には、陰の人物であった弥三の実像を描くことで、権力の座にある者たちが、敗戦によっても何ひとつ変わることなく、戦前と戦後を密通させてきた構造を解き明かす必要があった。
弥三の妻は若死にするが、彼は寄せられた香典を貧困や差別に苦しむ人びとに寄付する心根の持ち主であった。この慈善事業と時期を同じくして、彼は特高としての職務を忠実に果たす。社会的不正義を正そうとして活動する人びとを弾圧し、拷問にかけるのである。著者はその矛盾を問うが、この時期の日記はなく、その内面をうかがい知ることはできない。それだけに、このあたりの叙述にはもどかしさが残る。
敗戦後、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)は特高解体を命じる。だが、当時の政治・官僚・軍事のすべての組織がそうであったように、上層部は巧みな延命策を講じて、来るべき占領体制解除後に備える。
弥三も国会議員となって、紀元節復活に熱心に取り組む。戦後過程が孕(はら)む「無責任体制」の再検討を改めて促す好著である。
(新日本出版社・2420円)
1951年生まれ。山口大名誉教授、日本近現代政治史。著書『侵略戦争と総力戦』など。
◆もう1冊
荻野富士夫著『特高警察』(岩波新書)