“登山”を信じていなかったある“登山家”の憐れな転落
[レビュアー] 角幡唯介(探検家・ノンフィクション作家)
登山家栗城史多(くりきのぶかず)がエベレスト南西壁で遭難したと知ったとき、こみあげたのは憐れみの感情だった。自分でも登れるわけがないとわかっている難ルートに、自己演出のために挑み、滑落する。その最期は憐れという以外に言葉が見つからない。その感懐は本書を読んでさらに強まった。そしてわかったことがある。それは、彼が憐れだったのは、登山家を名乗っていたのに登山を信じていなかったからだ、ということだ。
彼は山を演出の場としてしかとらえていなかった。そのことは本書に一貫して書かれているが、とりわけ、彼の登山がいかに粉飾されていたかを物語るシェルパの証言のくだりでは、複雑な気持ちになった。それは読んでいて切なくなるほどだった。どうして彼はそれほどまでに登山に対して不誠実であれたのだろう? 虚像と実像の整合性が自分でもとれなくなった、との知人の言葉があるが、その通りだと思う。彼は山に命をかけたのではなく、人から面白いと思われることに命をかけていたわけだ。エベレストという場所で。
最初はうまくいった。うまくいっている間はいい。でも成功はいつか躓(つまず)くときがやってくる。そのとき何が支えになるのか。彼の場合、本当ならそれは登山だったはずだ。しかし彼の登山は偽物だった。虚飾だった。だから支えにならなかった。
そこから彼の転落ははじまってゆく。本書では、彼が両手に負った重度の凍傷は不自然だとの指摘が何度かなされるが、それが事実なら、その行動はちょっと常軌を逸しているとしかいいようがない。演出ばかりにとらわれ肝心の登山に実体がなかったことが、結局は彼自身を追いつめることになっていったのだ。そこが何ともやるせない。
なぜこんなことになってしまうのか。後半になるほどその思いは強まってゆくが、それを一番強く感じていたのは栗城氏本人だったのではないだろうか。