岸田奈美が読む、認知症を患うカケイさんのミステリアスな語りの物語『ミシンと金魚』(永井みみ)

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ミシンと金魚

『ミシンと金魚』

著者
永井 みみ [著]
出版社
集英社
ジャンル
文学/日本文学、小説・物語
ISBN
9784087717860
発売日
2022/02/04
価格
1,540円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

忘れられない因果が、幸福な人生を結ぶ

[レビュアー] 岸田奈美(作家)

 いい小説とは、何か。私にとってそれは、つらい現実から逃げたくて読んだはずが、自分にない視点を得て、結局現実まで変えてしまう力を持つ作品だ。

 本作の魅力は、主人公・カケイさんの“語り”が持つ引力だろう。読み始めると、不思議に思うことがたくさんある。かわるがわる訪れる介護士を彼女はまとめて「みっちゃん」と呼び、愛する息子の死を忘れ、ついでに今の季節も忘れ、脈絡のない思い出話を鉄砲水みたいに差し込む。カケイさんが認知症を患っていると気づけば、その違和感にも、同情じみた合点がいく。

“……そうか。健一郎は死んだのか。どうりで、ここんとこ、見かけないとおもった。”

 ああ、ボケてんのね。頭の中に、身近な高齢者を思い浮かべたのは、私だけではないはずだ。

 認知症患者と、明るく優しい介護士の、ほのぼのした日常ストーリーが始まるんだろうな。そう信じて読み進めていたら、思いっきり裏切られた。白昼夢のように混濁したカケイさんの記憶は、語りを通して、ミステリのように少しずつ紐解かれてゆく。

“つくづく因果はめぐるんだね”

 カケイさんは、因果という言葉を何度も使う。人生に起こるすべてのことには、因果がある。認知症ゆえだろうと思っていた彼女の発言や行動のすべてには、壮絶な一生から織りなされる“因果”が、裏地のように縫い付いていて、度々驚かされる。

 認知症は、八十歳後半なら三人に一人近くが発症する。身近だからこそ、私はその症状をなんとなくわかったつもりでいた。あれは、本当は、大切な思い出を忘れる病気ではなくて。過去の忘れたい因果を、忘れられなくなる病気なのかもしれない。目を背けたくなるような失敗を。喪ってしまった誰かを。カケイさんのように、介護を受けて穏やかに暮らしながら、心の片隅で深い悲しみと無意識に共存し、自らを責め続けていく。

 しかし、人は、生まれながらに治癒力も持っている。気の遠くなるような長い時間、様々な角度から因果を噛み締め、後悔し、諦め、日々を繰り返した先で「それも含めて、幸せだった」と、すべてを受け入れられる瞬間に不意打ちで出迎えられる。そこへたどり着くカケイさんは、人の手を借りなければ生きていけない、弱い年寄りにはとても見えなかった。ケアマネージャーとして働いた経験を持つ著者・永井みみさんが、その光景を書いてくださったことに、とてつもなく勇気づけられる。永井さんにはきっと、現実を生きる認知症の人々が、そう見えていたはずだ。

 先月、認知症が悪化し、グループホームへ移った祖母とカケイさんが重なる。祖母が吐く支離滅裂な言葉に、私は苦しんだ。大好きな祖母が、得体の知れない存在に変わったことを嘆いた。だけど今、本作から受け取った想像力という微かな希望が、私たち家族のグチャッともつれた糸を解こうとする。祖母の因果に、思いを馳せる。

河出書房新社 文藝
2022年夏季号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

河出書房新社

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