零下七十五度の中カバノキの樹皮に火をつけられるか
[レビュアー] 野崎歓(仏文学者・東京大学教授)
書評子4人がテーマに沿った名著を紹介
今回のテーマは「焚き火」です
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貧しい家に生まれたジャック・ロンドンは、小学校を出てから働きづめだった。アザラシ狩り船にも乗り込んだし、ゴールドラッシュで一攫千金をもくろんだこともある。『野生の呼び声』で人気作家になると今度は日々執筆に追われる。冒険や苦難に事欠かない、ぎりぎりの人生を生きた末に四十歳で急逝した。
限界にまで追い込まれる体験を肌身で知る作家だからこそ書き得た一篇が「火を熾す」だ。カナダの極北、ユーコン川べりの道を男が一人歩む。「丸太が採れる可能性を探ろう」というだけのつもりだったが、華氏「零下七十五度」の寒さににっちもさっちも行かなくなる。太陽も一向に昇らず、暖を取るには焚き火をするほかない。だが男は「カバノキの樹皮」にうまく火をつけることができるのか?
氷と雪の世界をさまよって指は凍りつき、マッチ一本擦ろうにも言うことをきかない。そのもどかしさ。うまく着火できなければもうおしまいだ。次の一手はそのまま生死を決する意味を帯びる。
男には実は連れがいた。一匹のエスキモー犬がついてきていた。寒さに気を滅入らせた犬の「視点」も加わることで、物語はいっそうスリルと深みを増す。いまや人間の優位は揺らぎ、むきだしの「本性」こそがものを言う。
刻々の進展をぐいぐいと描き出す訳文の推進力が素晴らしい。暖かい火のありがたみを、これほど痛切に思い知らせる小説も稀だろう。