『非有機的生』
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『非有機的生』宇野邦一著(講談社選書メチエ)
[レビュアー] 郷原佳以(仏文学者・東京大教授)
近代「生政治」への抵抗 示唆
「有機農法」とか「有機的な組織」などというが、「有機的」とはどういうことだろうか。外的な力が加わることなく各部が緊密に連携して全体として最善に機能している状態のことだろう。そのモデルは自然の生命であり、生きた身体である。生きた身体は単なる器官の集合ではなく、各部が相互に精巧に結びついている。逆に、「非有機的」というと何が思い浮かぶだろうか。人工肥料やロボットなど、生命をもたず、自然には存在しないものだろう。だとすると、「非有機的生」とはどういうことだろうか。
本書は、西洋/東洋、概念/図像、精神/身体、超越/内在などの様々な二分法のうちで有機性/非有機性が人間の歴史にとって決定的な意味をもつという見通しのもと、二項の関係性についての総論と、イメージや映画などの事例に有機性と非有機性の混淆(こんこう)を見出(みいだ)す各論の二部から成る。表題に表れているように、著者は二項を相容(あいい)れない対立として捉えるのでも、二分法を不要とするのでもなく、人間の生と営みの内に非有機化の過程が孕(はら)まれていることを示してゆく。
まず気づかされるのは、社会を構成する活動や知的な営みにおいて、人間が「有機体」モデルを理想としてきたことである。それは総体としての調和を善とするモデルだ。西洋哲学は調和を求めて合目的性(カント)や弁証法(ヘーゲル)を追求し、芸術もその枠組みで理解してきた。
しかし実際には、人間の活動は有機的な自然を改変して自らのために利用する非有機的な介入だった。本書の序章には、「人間は全自然を自分の『非有機的身体』とする」というマルクスの定式が引かれている。人間の有機的な生を統計的に、つまり非有機的に操作しようとするのは近代の「生政治(せいせいじ)」である。
他方で、著者がデュシャンやアルトーらをヒントに垣間見せてくれるのは、芸術作品の受容や映像技術、また性愛などには、調和的な全体性に収まらない非有機的次元があるということである。そこに目を据えることが「生政治」への抵抗にもなると、著者は示唆しているようだ。